ここでしか聞けない話
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あのころは、神戸市灘区の山の手に住んでいました。両親と妹2人の5人住まい。地盤が硬い地域だったため、おかげさまで家族は全員無事、マンションも無傷でした。だから20年たっても、震災のことには触れたくない、触れる資格がないと思っていた。もっとひどく傷ついた人たちがいるのに、僕なんかが語れることはないと考えていたんです。
近所に住んでいた父方の祖母とは、すぐに連絡がついて無事を確認できました。母方の祖母が、叔母と一緒にJR灘駅の沿線に住んでいたため、煙が上がっているのを目にしてすぐ、父と車で向かいました。山から下りていけばいくほど、すさまじい状況が広がっていて…あの光景は、今でもわすれられません。
祖母の家は傾いていましたが、おかげさまで叔母ともども無事でした。家の向かいにある線路沿いのフェンスの前で、毛布にくるまって避難していたんです。でも、祖母を連れ帰った直後に近所の家から火が出て、祖母の家は全焼しました。それからしばらくして、焼け跡から祖父が集めていた骨董品を取り出して持ち帰り…今でも保管しています。
祖母と叔母を含めた7人で、身を寄せ合うように暮らしていました。マンションのすぐ横に川が流れていたので生活用水を確保することができ、親戚が救援物資を持ってきてくれるなど、そんなに不自由だった記憶がないんです…。祖母の家はつぶれて燃えてしまったけれど、家族は無事だった。当時は高校生だったので、「生活を建て直す」というリアリティがなかったのかもしれません。
名簿を頼りに、借りた自転車で2号線沿いを東西に走り、友人や後輩の安否確認をしていきました。携帯電話が普及していなかった時代なので連絡のとりようもなく、「とにかく行かなきゃ」という想いだけで毎日突っ走っていた気がします。2カ月後の、たしか3月。ようやく学校に行けるようになってから、先輩が1人、後輩が1人、学校の生徒が2,3人、先生が1人、亡くなったことを知ったんです。同級生は全員無事でした。
ふだん使っていた講堂が使えず、十分な練習はできませんでした。理科室や物理室などを借りて、部員全員とはいかなかったけれど、仲間を亡くした1つ下の後輩たちと一緒にがんばりましたね。「そんなことをしている場合ではないのでは」と言う人もいましたが、「一緒に演奏しよう」という純粋な気持ちで有志が集まっていました。ひょっとしたらだれかに喜んでもらえるかもしれない、という想いもあったのかもしれません。
学生時代は実家で暮らし、大阪の大学へ通いました。社会人になってからは大阪の八尾で。10年ほど大阪中心の生活だったので、大人になってからの神戸を実はあまり知りません。祖母の家が全焼しただけでも本当は大変なことなんだろうけど、幸いにも命は助かった。身近な人の死を経験していない、という遠慮のようなものをずっと抱いていました。自分で稼ぐ年齢で被災していたら、もっといろんな自覚があったのかもしれません。
神戸生まれの神戸育ち、いつかは神戸に帰るんだろうなと思っていました。妻は3姉妹で、女性ばかりだったこともあり、さっそく義父に話したところ、もろ手を挙げて歓迎してくれたんです。そのころは「毛利マーク」に100年近い歴史があるなんて、意識していなかった。三宮にお店があって、後継者がいなかったことと「長く続きそう」というふわっとした動機から就職することにしたんですよね。なんていうと流れ着いた感じではあるけれど、今となっては、自らの意思で選び取ったのだと思っています。
「毛利マーク」は、トロフィー屋。商売の発展について考えをめぐらせていたとき、「トロフィーは、だれかをほめるときに使うもの。ほめる機会が増えればトロフィーを使う機会も増えるのでは?」「人をほめることは、いいこと。ほめる文化が広まったらいいな」と思ったことが、すべてのはじまりでした。
自主開催で表彰式のようなものができたらいいな、とネタを探していたころに三女が生まれて。1カ月、時短勤務をすることになりました。通常の勤務時間より1時間早く帰って、上の子たちの保育園の送り迎えをしたんです。これが、たった1時間のことなのに、いつもより早く仕事を切り上げるのが大変で…いったん自宅に戻って自転車に乗り、迎えにいく生活は想像以上に過酷でした。そんな時、新聞で少子化問題についてのインタビュー記事を発見。北欧の男性は80%以上の男性が育児休暇を取ると知りました(日本では1%程度)。その記事の最後に「イクメン大賞でもやったら?」と書いてあり、これだ!とひらめいたんです。
神戸の「イクメン」に限定せず、あえてひらがなで「こうべ」と表現しました。全国の「イクメン」エピソードを集めて、「イクメン」のライフスタイルを神戸から発信しようと試みたんです。2010年の1月に思いつき、2月には活動をスタート。今年やらなければ、二番煎じになってしまう!と無我夢中で突き進みました。
2010年は、育児介護休業法という法律がスタートした年。年末には「イクメン」が流行語大賞ベスト10にノミネートされました。厚生労働省の大臣が「イクメンプロジェクト」を立ち上げて、イクメンの星を表彰するなど、その後も他の地域でイクメン大賞みたいなものが始まりました。つまり、神戸は「イクメン」の先がけだったんです。
2010年から取り組み続けて、ちょうど5年。「イクメン」という言葉があたりまえのものになったのはいいけれど、名前ばかりがトレンド化して、子どものいない家庭には関係ないと思われるようになっていました。地域には子どもがいるわけですから、人ごとではないはずなのに。父の日にお父さんを表彰することだけにとらわれず、子どもとふれあうきっかけづくりをしようと考え、2013年に「こうべイクメンの日」と名称をあらためました。今ではずいぶん仲間が増えてきたので、まだまだ「イクメン」活動を続けていけそうだなと。自分の子であれ、人さまの子であれ、子どもたちや子どもたちに関わることをみんなで見守ることが普通になれば、神戸のまちはよりよくなっていくはずだと信じています。
イクメンのキーワードは子ども。さまざまな活動を通じて、もっと「神戸はいいところだ」とみんなが思える状況をつくっていきたいですね。活動している僕たちだけでなく、神戸で暮らす人や働いている人たちも含めて。だから今、阪神・淡路大震災から20年という節目をひとつの機会にするべきだとあらためて感じています。神戸の未来を継ぐ者として何ができるか、どうしたいのか、だれもが進んで関われるのは何なのかを考えたい。「KOBE LOVE!!」と心の底からと言えるように。今を生きて、これからも生きていく身として、ほんの少しでも神戸に貢献できたらいいなと願っています。