イクメン

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心の底から、KOBE LOVE!と言えるように 神戸から「イクメン」文化を広げていく。 毛利マーク 藤井淳史さん

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震災に触れたくない、僕なんかが語れることはない

あの阪神・淡路大震災から20年。被害があまりに甚大だったため、身近な人を亡くした方々を気遣うあまり、「家族は無事だったから…」「家は壊れなかったから…」と受けた心の傷やつらさ、不安を多くの人が語ろうとしなかったという事実があります。

藤井さんも、その1人。震災当時は高校2年生、ベッドで寝ていて大きな揺れを感じたそうです。壁時計が落下して表面のガラスが割れ、本棚に飾っていた木製の置物が枕元に落ちてきました。経験したことのない揺れで、辺りは真っ暗。その時はまだ事態を把握できていなかったため、「学校、あるのかな」と思っていたそうです。
あのころは、神戸市灘区の山の手に住んでいました。両親と妹2人の5人住まい。地盤が硬い地域だったため、おかげさまで家族は全員無事、マンションも無傷でした。だから20年たっても、震災のことには触れたくない、触れる資格がないと思っていた。もっとひどく傷ついた人たちがいるのに、僕なんかが語れることはないと考えていたんです。

あの光景は、今でもわすれられない

家族5人で身を寄せ合っているうちに、夜が明けました。窓を開けて南の方を見ると、あちこちから煙が上がり、見たことのない光景が広がっていたのだそう。
近所に住んでいた父方の祖母とは、すぐに連絡がついて無事を確認できました。母方の祖母が、叔母と一緒にJR灘駅の沿線に住んでいたため、煙が上がっているのを目にしてすぐ、父と車で向かいました。山から下りていけばいくほど、すさまじい状況が広がっていて…あの光景は、今でもわすれられません。

祖母の家は傾いていましたが、おかげさまで叔母ともども無事でした。家の向かいにある線路沿いのフェンスの前で、毛布にくるまって避難していたんです。でも、祖母を連れ帰った直後に近所の家から火が出て、祖母の家は全焼しました。それからしばらくして、焼け跡から祖父が集めていた骨董品を取り出して持ち帰り…今でも保管しています。

「生活を立て直す」リアリティがなかった

地盤が丈夫なエリアだった影響で、ライフラインのうち電気はすぐに復旧。テレビをつけてはじめて事態を把握し、言葉を失ったそうです。
祖母と叔母を含めた7人で、身を寄せ合うように暮らしていました。マンションのすぐ横に川が流れていたので生活用水を確保することができ、親戚が救援物資を持ってきてくれるなど、そんなに不自由だった記憶がないんです…。祖母の家はつぶれて燃えてしまったけれど、家族は無事だった。当時は高校生だったので、「生活を建て直す」というリアリティがなかったのかもしれません。

名簿を頼りに、借りた自転車で2号線沿いを東西に走り、友人や後輩の安否確認をしていきました。携帯電話が普及していなかった時代なので連絡のとりようもなく、「とにかく行かなきゃ」という想いだけで毎日突っ走っていた気がします。2カ月後の、たしか3月。ようやく学校に行けるようになってから、先輩が1人、後輩が1人、学校の生徒が2,3人、先生が1人、亡くなったことを知ったんです。同級生は全員無事でした。

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アルバムには、高校のブラスバンド部の思い出が

とにかく、みんなで演奏したかった

兵庫県立神戸高等学校ブラスバンド部の部長を務めていた、藤井さん。3月の開催を前に準備を進めていたOBとの定期演奏会が中止となり、部活動そのものもままならない中、「とにかく演奏したい」という気持ちが高まります。震災から約2カ月後の3月11日、先輩のつてで神戸市灘区の小学校で、慰問のようなスタイルでの演奏会が実現しました。体育館が避難所になっていたため、校庭で「となりのトトロ」など、多くの人が知っている曲を披露したそうです。
ふだん使っていた講堂が使えず、十分な練習はできませんでした。理科室や物理室などを借りて、部員全員とはいかなかったけれど、仲間を亡くした1つ下の後輩たちと一緒にがんばりましたね。「そんなことをしている場合ではないのでは」と言う人もいましたが、「一緒に演奏しよう」という純粋な気持ちで有志が集まっていました。ひょっとしたらだれかに喜んでもらえるかもしれない、という想いもあったのかもしれません。

震災が発生した年の夏、ブラスバンド部は関西大会に出場しました。2月か3月に予定されていた修学旅行は中止となり、3年生になってから、バスで京都へ遠足に。「だから、震災の記憶は高校時代のイメージが強いんです」と藤井さんは語ります。
学生時代は実家で暮らし、大阪の大学へ通いました。社会人になってからは大阪の八尾で。10年ほど大阪中心の生活だったので、大人になってからの神戸を実はあまり知りません。祖母の家が全焼しただけでも本当は大変なことなんだろうけど、幸いにも命は助かった。身近な人の死を経験していない、という遠慮のようなものをずっと抱いていました。自分で稼ぐ年齢で被災していたら、もっといろんな自覚があったのかもしれません。

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1914年創業、100年続く「毛利マーク」の軌跡をたどる展示

神戸で100年続く、かけがえのない老舗を継ぐために

藤井さんは大阪で技術職の仕事に就き、社会人1年目に、奥さまとご結婚、2005年に長女を授かったそうです。けれど仕事がいそがしくて体調をくずし、1カ月ほど会社を休まなければならなくなりました。このままではいけない、この先どうしようと考えた時にふと頭に浮かんだのが、奥さまの実家である「毛利マーク」だったのだそうです。
神戸生まれの神戸育ち、いつかは神戸に帰るんだろうなと思っていました。妻は3姉妹で、女性ばかりだったこともあり、さっそく義父に話したところ、もろ手を挙げて歓迎してくれたんです。そのころは「毛利マーク」に100年近い歴史があるなんて、意識していなかった。三宮にお店があって、後継者がいなかったことと「長く続きそう」というふわっとした動機から就職することにしたんですよね。なんていうと流れ着いた感じではあるけれど、今となっては、自らの意思で選び取ったのだと思っています。

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「毛利マーク」のある、神戸・三宮センター街で

「イクメン」が、日本にほめる文化を広めていく

神戸にもどった藤井さんは、2008年に二女、2010年に三女と3姉妹のパパに。三女の誕生をきっかけに、「3年でイクメンがあたりまえの社会に」を目標に掲げた「こうべイクメン大賞」を2010年に開始します。
「毛利マーク」は、トロフィー屋。商売の発展について考えをめぐらせていたとき、「トロフィーは、だれかをほめるときに使うもの。ほめる機会が増えればトロフィーを使う機会も増えるのでは?」「人をほめることは、いいこと。ほめる文化が広まったらいいな」と思ったことが、すべてのはじまりでした。

自主開催で表彰式のようなものができたらいいな、とネタを探していたころに三女が生まれて。1カ月、時短勤務をすることになりました。通常の勤務時間より1時間早く帰って、上の子たちの保育園の送り迎えをしたんです。これが、たった1時間のことなのに、いつもより早く仕事を切り上げるのが大変で…いったん自宅に戻って自転車に乗り、迎えにいく生活は想像以上に過酷でした。そんな時、新聞で少子化問題についてのインタビュー記事を発見。北欧の男性は80%以上の男性が育児休暇を取ると知りました(日本では1%程度)。その記事の最後に「イクメン大賞でもやったら?」と書いてあり、これだ!とひらめいたんです。

子育ては本当に大変だから、ほめられたらうれしいなと純粋に思ったという藤井さんは、同じく子育て中のお父さんから「お迎えに行った時の、まわりのお母さんたちの視線が気になる」という話を聞きます。みんな、なんとなく肩身のせまい想いをしているんだなという気づきも「イクメン大賞」のスタートを後押ししました。

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神戸が、「イクメン」文化の先がけに

さらに、前年の2009年に神戸で新型インフルエンザが発生して、まちなかから人の姿が消える状態が続くなど、阪神・淡路大震災発生後、神戸にはネガティブな話題が多すぎると感じたのだそう。港町として西洋に開かれていた神戸はもともと、物や文化の「はじめてものがたり」が多いポジティブなまち。いいことを発信していく機会をつくって、明るく楽しく、新しい生き方や考え方を神戸から発信したかったといいます。
神戸の「イクメン」に限定せず、あえてひらがなで「こうべ」と表現しました。全国の「イクメン」エピソードを集めて、「イクメン」のライフスタイルを神戸から発信しようと試みたんです。2010年の1月に思いつき、2月には活動をスタート。今年やらなければ、二番煎じになってしまう!と無我夢中で突き進みました。

1年目の2010年6月、父の日に神戸・三宮センター街でイベントを開催。イクメンにまつわるエピソードを全国から募集して、応募者全員141人を「こうべイクメン」に認定、表彰式を行いました。当日は通りすがりの人よりも、わざわざ見に来た人たちと報道関係者がほとんど。神戸新聞の地域欄に写真入りで掲載されたことをきっかけに取材が増え、テレビの取材を受けたことがさらに大きな影響を与え、それからも数多くの取材を受けました。
2010年は、育児介護休業法という法律がスタートした年。年末には「イクメン」が流行語大賞ベスト10にノミネートされました。厚生労働省の大臣が「イクメンプロジェクト」を立ち上げて、イクメンの星を表彰するなど、その後も他の地域でイクメン大賞みたいなものが始まりました。つまり、神戸は「イクメン」の先がけだったんです。

「イクメン」は、子どもたちを見守るすべての男性

子育てに関わるお父さんにスポットをあてた「イクメン」。ですが、そうすればするほど、お母さんに光があたらなくなっていきます。母子家庭や事情があって親元にいられない子どもたちもいる、お父さんだけにしぼらなくてもいいのではないかと思うようになり、育児に関わるすべての男性を「イクメン」と呼ぼう、と拡大解釈することにしたそうです。今では「イクメン」という言葉が、あたりまえのように使われるようになりました。
2010年から取り組み続けて、ちょうど5年。「イクメン」という言葉があたりまえのものになったのはいいけれど、名前ばかりがトレンド化して、子どものいない家庭には関係ないと思われるようになっていました。地域には子どもがいるわけですから、人ごとではないはずなのに。父の日にお父さんを表彰することだけにとらわれず、子どもとふれあうきっかけづくりをしようと考え、2013年に「こうべイクメンの日」と名称をあらためました。今ではずいぶん仲間が増えてきたので、まだまだ「イクメン」活動を続けていけそうだなと。自分の子であれ、人さまの子であれ、子どもたちや子どもたちに関わることをみんなで見守ることが普通になれば、神戸のまちはよりよくなっていくはずだと信じています。

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神戸への想いがあふれる、藤井さんがデザインしたTシャツ

神戸の未来を継ぐ者として、子どもたちに伝えていきたい

阪神・淡路大震災を知る神戸市民の割合が全体の60%を切り、これまで共通の体験だったものが語りにくくなってきた今。このたび、インタビューを受けようという気になったのは「子どもたちに伝えていかなくては」と思ったからなのだそうです。
イクメンのキーワードは子ども。さまざまな活動を通じて、もっと「神戸はいいところだ」とみんなが思える状況をつくっていきたいですね。活動している僕たちだけでなく、神戸で暮らす人や働いている人たちも含めて。だから今、阪神・淡路大震災から20年という節目をひとつの機会にするべきだとあらためて感じています。神戸の未来を継ぐ者として何ができるか、どうしたいのか、だれもが進んで関われるのは何なのかを考えたい。「KOBE LOVE!!」と心の底からと言えるように。今を生きて、これからも生きていく身として、ほんの少しでも神戸に貢献できたらいいなと願っています。

(写真/片岡杏子 取材・文/二階堂薫)

藤井淳史

株式会社毛利マーク 取締役/こうべイクメン実行委員会 実行委員長。トロフィーを使う場を増やし、「ほめる文化」の普及を目指す。3女誕生後の1カ月、時短勤務をし、育児の本当の大変さを知り、育児する自分を認めて!という想いとほめる文化の普及のために、2010年、こうべイクメン大賞を企画。

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