これからが気になる話
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佐野海士さん:
僕は現在「東北合宿」のリーダーを務めています。「東北合宿」は、最初の頃、東北でボランティアをしていたんですけど、東日本大震災から時間がたつにつれて、中高生が2泊3日の間に被災地でできるボランティアが非常に少なくなってきた。現在は、現地でボランティアをするっていうよりは、東北の被災地で実際に被災した人や復興支援活動をされている人、現地の高校生などの話を聞いたり、話し合ったりする場を設けるようになりました。震災の体験であったり、復興の取り組みとはどのようなものかを知るボランティア、そして関西に帰ってきて伝えるボランティア。それらを“知るボラ・伝えボラ”といって活動しています。
石田晴輝さん:
僕が東北合宿に行った目的は、やっぱり「知る」ことでした。今まで全然知らなかったからこそ、若干の恐れや歪んだ印象を持っていたので、実際のところを見て知れる分だけでも知りたいと思いました。行ってみると、被害の状況だけじゃなくて、現地の人々が被害についてどう思っているか知ることができました。想いの違いも知りました。それと東北の人は熱い!ということが分かりました。
山下純平さん:
僕は気仙沼市の「ホテル望洋」の女将さんの話が心に残りました。「困っている人の心に寄り添える人になってほしい」って切実に言われたのが印象的で。僕らが東北まで行って、当時避難所になっていたホテルを訪れて、震災を体験した人から実際に話を聞くってこと自体が「いいなぁ」って思いました。単純に来てよかったなぁって。あと、復興することは単純なことじゃないなって、肌で感じました。がれき処理など考えなきゃいけないことがたくさんありました。東北へ行ったからこそ、今後も学校で行う震災関連のイベントに関わっていきたいと思えるようになりました。
山崎隆一郎さん:
僕は、行く前は東北の現状がよく分かっていませんでした。僕は阪神・淡路大震災から3年後の1998年生まれ。神戸は震災から3年の時点でほとんど復興していたと聞いていましたから、東北の復興も3年は無理でも、4〜5年単位でできるものだと勝手なイメージを持っていたんです。どちらかというと「もう復興できているんじゃないか」くらいの軽い気持ちで。現地でも目の前に重い状況があるのに、「いや、それでももうすぐに復興できるんじゃないか」という気持ちがずっと拭いきれませんでした。
山崎隆一郎さん:
「放射線で汚染された土はパッパとどこかに処分しちゃえばいいじゃないか」っていうのが都会の人の考えですよね。でもその「どこか」がどこにもないんです。頭の中でパパパと数式で計算して、この量の土やがれきは、何年で処分できるって、理論上は計算できるんですけど、そういうことじゃないんですよね。
今まで、僕のニュースの見方は浅かったんだなと痛感しました。例えば、頭の中の数値計算では「こういう数字が出ているから、こういう結果になる」などと考えておしまいです。でも、現地に行ってみると、住んでいた土地が失われた喪失感など、数では割り切れない人の感情があるんだと、今さらかもしれないけど気がつきました。
佐野海士さん:
僕は、東北合宿に行くことによって東北が“自分ごと”になり、当事者意識を持つようになることに大きな意味があると思っています。前川先生の受け売りでもあるんですけど、実際足を運んで、現地の人と触れ合うことで「◎◎さんのいる東北」になるんです。被災地でお話をきかせていただく方だったり、自分がおいしいご飯を食べた場所だったり、東北が関わった場所になることでニュースを見る目が変わりました。例えば、被災地でちょっとした地震が起こったときも「あ、大丈夫かな」って考えるようになりました。
島田真志さん:
東北合宿を終えたあと、電車が来るまでまだ時間があるからご飯を食べようと駅の待合室で話していたら、見知らぬおじさんが「おいしい中華料理屋知ってるから」って連れていってくれたんです。そこの中華料理屋のご主人に「どこからきたの?」と訊かれたので、兵庫から来たというと歓迎して僕らに震災当時の話をしてくれました。
「自分の命を助けるのがまず先や」って言われて、自分の身さえあればどうにかなるからって。とにかく自分の身を助けろって言われて。初めて会う僕たちに話しをしてくれて、ありがたかったし、東北で聞くそういう言葉には現実味がありました。
佐野海士さん:
「あんな大変なことがありました。復興しました」って描くことはテレビやニュースでもやりますが、阪神・淡路大震災を経験していない僕たちにはいくら見ても実感が湧かないし、そこまで身近に感じてもいませんでした。
学校でも当時の状況を教わるんですけど、先生から「とうとう震災経験していない世代を教えることになったんか」といわれることが多くて、結講カチンとくるというか(笑)。「なんだよ!」と思う気持ちも若干あって、だからこそ、知らない世代として、何ができるのかやってみたいと思いました。
飯塚喜洋さん:
先生一人ひとりが当時のことを鮮明に覚えていて、そのときの気持ちをきちんと教えてくださるんです。また、それと同時に震災から学び取った教訓やポリシーを先生たちから聞くことができたのは大きな財産でした。
元美術教諭で今は退職された、初田先生からは「こういう有事のときは知識も大事なんだけど、知恵のほうが大事なんだ」というお話を聞きました。例えば「鍋が無ければ料理が作れない」、っていうのは、知識としては当然なんですけど、有事のときに「鍋がない。じゃあどうする?」ってなったとき、知識だけなら鍋がないから料理するのは無理、で終わってしまいますが、何かを代用する知恵を持っていれば料理することができます。この話で、誰が何を必要としているのかを考える力が大事だと学びました。知識と知恵は違うんだと。
こうやって話を伺ったことで先生方に人間の奥行きを感じたし、言葉に重みを感じました。こんな先生たちに教えてもらって自分は恵まれているな、と自分自身もうれしくなったし授業のありがたみも増しました(笑)。
飯塚喜洋さん:
東北合宿から帰ってから、防災のことや有事のことを考えたら、灘高等学校の生徒として、地元と関わっていくって大事だという話を佐野くんとしました。また地元の人と交流したい。阪神・淡路大震災っていうものが、地域と僕らのお互いが学び合える共通の話題として、僕らと地域をつないでくれるんじゃないかなという感じがしました。
佐野海士さん:
「そういえば、来年で阪神・淡路大震災から20年なんだ」って気がついて、生徒会長の小坂くんとも何をしようかと何度も話し合いました。
小坂真琴さん:
東北に行ってない人にも考えてほしいと思っていたので、阪神・淡路大震災であれば「学校で起こったこと」ということで共通項がなんとか見出せるかなと思いました。僕は東北に行っていないので「行ってない人は、この企画をどう感じるんだろう」、って思いながら企画に参加。今となっては、僕が東北に行ってしまったら行ってない人視点がなくなるな、と…。まあ言い訳めいているんですけど(笑)。
飯塚喜洋さん:
何よりも震災に対する意識も変わりました。自分の住むまちのハザードマップを見直してみたり、この地域は防災に関してどんなシステムを用いているのか、むしろ昔からある石碑にヒントがあるなど、勉強になりました。
佐野海士さん:
地域の人も20年前のことを、思い出して、振り返る機会になるし。灘高生としても、僕らは東灘に通っているのに、震災のことを何も知らない。学び直す。灘高のあるこのまちが昔、こんな被害を受けたのかって学ぶにもいい機会でした。
松田宥野さん:
これでは、本当の意味で灘高等学校が地元から愛されているとは言えません。近隣と接点がないという状態で「灘高は日本一の学校だ」と言えるのかと疑問を呈した生徒がいたんです。そこで、灘高が地域とつながる活動をできたらいいんじゃないかと、近隣の小学校に着目して「小学校企画」が始まったのです。
松田宥野さん:
住吉小学校では震災をテーマにした授業を行いました。灘高の先生への阪神・淡路大震災インタビューや「東灘災害写真展 大震災と大水害~住吉駅から振り返る~」の駅展示などは、阪神・淡路大震災というものを通して地域とつながるということを目標としてやっていると思うんですけど、これら二つはどちらかというと、僕ら世代への情報や歴史の共有であったり、僕らがこの地域に対してやっていることを上の世代に示すことだと思うんです。
「小学校企画」は啓蒙というと言い過ぎかもしれませんが、僕らから下の世代に対するアクション。本質的には、上の世代、同世代、下の世代の想いが並列になって、灘高が「地域とつながる」ということがやっと実装されるのではないでしょうか。
佐野海士さん:
地域で、顔を合わせたらあいさつをしたり普段から話をしたり、「あそこには◎◎さんが住んでいて」「××さんはこういう人で」ということを知っている地域の方が、実は災害にも強いんじゃないかな。もちろん、あまりにプライバシーのないものや、コミュニティの外の人には冷たいようなものはお断りですが、何よりも僕が一番そういう心の距離が近い社会に住みたいと思っているんです。