ほろっとくる話
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まず、大学時代をすごした京都に住む友人に連絡をとり、安否の確認をしました。たまたまなのですが…震災が起きた当時は、東京の本郷にあるギャラリーで「都市」を題材にした企画展をおこなっている最中でした。「生きている都市の力を表現したい」と考え、告知フライヤーのメインビジュアルに、都市が躍動しているように見えるよう、ぶれた加工をほどこした写真を使っていたんです。僕たちの伝えようとしていたことが震災とリンクしてしまっていて…これから展覧会をどうしようか、と仲間たちと話し合ったことを覚えています。
被災地には行けませんでした。当時はまだ、神戸とはあまり縁がなかったとこともありますが、それよりも、現場はきっと僕たちの想像をはるかに超えた状態なのではないかという想いがあって…「現場に駆けつけても、じゃまになるのでは」と、気がひけてしまったんです。
このプロジェクトをはじめて4年がたちましたが、今思えば、阪神・淡路大震災が起こったときに感じたことや世界の集落調査をしていた経験があったから、今の活動につながっているんだろうなと、ひしひしと感じています。
世界の集落を調査していると、その地域ならではの風土を大切にしている集落や個性的な住宅があったりします。けれど、そのクリエーションはただおもしろい建築物だというわけでもないし、効率性や合理性だけでつくられたものでもない、その土地とそこに住む人々だからこその理由があるんです。
東日本大震災では、津波の影響で、わずか数時間の間に数えきれないほどのまちなみがなくなったという事実がありました。僕たちが、今までに見てきた海外のまちや村を思い出し…きっと、そのまちにしかない個性的な風景や、住民の暮らしがあったんだろうな、という想いが湧き上がってきて、このプロジェクトをはじめることになったんです。
1995年の阪神・淡路大震災発生から10年後、復興のシンボルとして三宮センター街にとりつけられた大型スクリーン「三宮BOS」を、2011年3月に設置しなおすことになっていました。その大型スクリーンの部品製作をお願いしていたのが、宮城県気仙沼市の高橋工業さん。3月7日に気仙沼で打ち合わせをしたすぐ後に、東日本大震災が発生して…3月25日に予定していた施工は2年間延期となりました。この経緯も「何かしなくてはいけない」という想いを深めた、大きなきっかけのひとつです。
東北で『「失われた街」模型復元プロジェクト』をおこなうことで誰かを傷つけてしまわないだろうか、という不安はありました。学生からも実際にそういう声があがって、悩んだこともあります。だけどそれでも一度、提案してみようと思ったんです。
ご家族を亡くした方もおられるでしょうし、とてもデリケートなことですから見たくない方もおられると思いますが…と前置きをして、制作予定の地図をお見せしたら…それまで冷静に話をしていた担当の方が、「なくなったまちが、たとえ模型の姿でもまた見られるんですね」と涙を浮かべてよろこんでくださって。まさか、そんな風に言ってもらえるとは思っていなかったので、意外な展開でした。同時に、その「場所」が持つ強さというものがあるんだなと実感した瞬間でもありました。
模型は、展覧会の会場にオープンな状態で展示しました。いつ、誰が来ても、いつでもワークショップに参加できるという手法です。展覧会スタイルにしておけば、無理強いすることなく、多少なりとも気軽に参加していただけると考えたんです。復元したまちの様子を目にすることや、現実と向き合うのがつらい方も大勢いらっしゃるでしょうから…。
「家族はみんな、亡くなって…」と、ご自身のことを語ってくださる方も大勢おられます。僕たちは寄りそうことしかできないんですが、不思議なことに、記憶を模型に記録していくと、そこに住んでいた方たちの息づかいが感じられるものへと変化していくんです。言葉にするのはむずかしいけれど、そういうところが東北の方々に受け入れてもらえた理由なのかもしれません。建物を復元することが重要なのではなくて、確かにそこに存在した、自分たちの暮らしを感じてもらうことが大切なんです。それぞれが持っている「場所への愛着」が、模型に命を吹き込んでいくのではないかなと。
被災地に限らず言えることですが、そこに住んでいる人たちこそが、そのまちの専門家だと思うんです。僕たちは、建築の専門家としてさまざまな事例をたくさん見ていますから、カタチにして提案することができるだけ。模型で街の記憶を復元していくのは、住民の方たちにしかできないことなんです。
岩手県で50年にわたって食料品店を営んでいる、あるおばあちゃんは津波のショックで過去10年ほどの記憶をすっかり失っていました。ある日、復元されたまちの模型を見ようと、展示会場へ足を運んでくださって。はじめは昔のことをまったく思い出せずにいたようなのですが、模型と向き合って10分ほどたったころ、表情がぱっと明るく変化して…あふれるように記憶がよみがえってきたんです。模型が「記憶のスイッチ」としての役割を果たしたのではないかと。その「場所」の記憶をよみがえらせることで、ほかの記憶につながっていくんですよね。その過程を、おばあちゃんは「ゲームみたいで楽しい」と表現しておられましたが、そういう感覚がとっても大切。誰もが持っているであろう記憶を呼び覚ますことが、このプロジェクトの重要なミッションのひとつだと思うんです。
「失われた街」の復元模型を通して語られることは、いやなことがあった場所よりも、どこかよそ行き風というか…いい思い出の場所について語られるという特徴があります。お葬式やお通夜のような場所で、亡くなった方とのいい思い出を語ることに似ているなぁと。ある学生が「模型を復元していくことは、まちを弔う儀式のようですね」と言ったことがあって…まさにそうだなと思いました。
東日本大震災のような大災害は予想しづらく、特殊なことです。防災・減災に対する意識を高めてくことももちろん重要ですが、高齢化が進むまちが抱えている課題にどう対応していけばいいのか。成長から衰退へ移行する中、なるべく多くの人が自分のまちを見つめ直して「課題をどう解決していくか」を意識しなければならない時代です。地域のために何かしたいと考え、行動している方には、仕事をリタイアした60代~70代の方々が多く、地域の貴重な知恵や逸話を若い世代に伝えようと思っても、そういう機会も少ないため、なかなか耳をかたむけてもらえないというのが現状です。ですから、このプロジェクトを通して、その地域が持つ豊かさや歴史などが世代を超えて共有されていくようになればという願いもあるんです。
桜の木、お地蔵さんなど…そのまちで育まれてきた小さなシンボルは、地図からは読み取ることができません。けれど模型なら、たとえばその地域でおこなわれていたすべてのお祭りの情景や開催場所について教えてもらって、その記憶を刻んで伝えていくことができるんです。
沿岸部から避難してきた方や、沿岸部で生まれた方、友人が沿岸部に住んでいた方など…現在は住民ではないけれど、その場所にご縁のある方も多く足を運んでくださいました。特に、震災後、沿岸部から内陸へ避難した方々の中には、自分は逃げてしまったのだと思い込み、罪の意識をぬぐうことができなくて地元に戻りづらい、という方もいらっしゃるんですよね。模型と向き合うことで、うつ気味になっていた方が元気を取り戻したというエピソードもお聞きました。心理学の箱庭療法ではありませんが…場所と自身の関係性を再構築する重要性を、あらためて感じましたね。
この場合の二重生活とは、自ら選択したことではなくて、そうせざるを得ない状況でおこなわれていることが問題です。簡単に解決できることではありませんが、この模型と向き合っていただくことで住んでいた場所の魅力やその地域がどんな風に構築されていったのかを思い出し、その想いも一緒に記録していけたらと思っています。
津波の被害にあわなかった高台エリアに新しい居住地をつくっていくわけですから、もともと住んでいて受け入れる側の方たちにも、これからそのまちに移転する方たちにも、双方に言いづらいことがあると思うんです。僕たちは、両者の橋渡しをする役割も担っている。復興事業は一般的に、被災して仮設住宅に住んでいる方たちにもっぱら目を向けがちですが、自分の住んでいるまちが大きく変わっていくことは、被災しなかった方々にとっても非常に大きな問題なんです。先祖代々受け継がれてきた土地、立ち入ってはいけない土地など、大切に守られてきたものがたくさんあります。だから、その土地の方たちも参加しやすいワークショップをおこなって話をお聞きし、慎重に計画を進めているところです。
大沢地区というエリアが丸ごと移転するにあたっては、集落全体の構造を大きく変更しなくてはなりません。まちや村は、実際に住んでみないとわからないもの。そんなときに、模型が重要な役割を担います。「昔住んでいたまちはこうだったんだ」と感じてもらうきっかけになるんです。
まず地形があって、まちがあって、その風景の中に目印になるようなものがあって。そういったもの全体が建築なんだと思っています。僕には、建築が人に見えるんですよね。「この建築は、なんだかかわいそうな建築だ」とか「個性が強くて、味方も敵も多そうだ」という風に、建築には『人格』がある。デザインされたものは、どんなものであっても、その人の思想が表れるもの。元来、建築は、地形や風土など美しいものの流れの中に職人の技術を融合した合作です。現代のまちを見ていて違和感を覚えるのは、合作したように感じられないからなのかなと。社会的にも個人主義的な世の中ですから、「すべてを一緒におこなう」ことにならなくても、せめて、まちや人に関心を持つことが重要なのではないかと思っています。
僕は、その家に住む方々が建築家のようであってほしい、と常々考えています。そうすることで、家と住む人の関係がよりよくなると思うんですよね。意図を共有して、価値を共に結び合わせていくためにも、模型はコミュニケーションツールとして重要なもの。そういう建築家としての経験もあって、被災した事実を受け入れるために模型が必要だと思ったんです。このプロジェクトが、その場所に住んでいた記憶や、写真などの思い出をなくしてしまった方たちの喪失感を埋める存在になればいいなと願っています。
被災した方々が、それぞれに血のにじむような想いを経験してこられたのだろうと思います。慣れ親しんだまちに住めなくなって、コミュニティが絶たれてしまったことで孤独死などの問題が浮かび上がってきたのは、阪神・淡路大震災が起こったからこそ。その問題を解決しようとがんばってこられた人々がいるという事実は、心から尊敬すべきことです。
神戸の人たちは、全国的に見ても、まちに対する愛情がとても強いですよね。外から見た感想としても、「自然が美しい」というより「まちの雰囲気がいい」と言われることが多いんです。神戸の人たちが、そこに住む人や神戸のまちのことが好きで、そういう想いがこのまちを形成しているんだろうなと感じます。神戸のまちがよりよくなっていくには、昔つくられた洋風の景観や、神戸特有の特殊な地形を「どう楽しんでいけるか」が鍵なのではないでしょうか。