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建築模型が、愛着ある場所との関係を再構築。「失われた街」の復元が、記憶のスイッチに。槻橋修さん

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現在の活動の原点は、1995年の大震災

阪神・淡路大震災発生当時、槻橋さんは東京大学大学院の博士課程2回生。南米や中東の集落を調査、研究していたころでした。千葉県の実家にお住まいだった槻橋さんは、テレビのニュースで震災が起きたことを知ったのだそう。画面に次々に映し出される、壊れてしまったまちの様子に言葉を失ったといいます。
まず、大学時代をすごした京都に住む友人に連絡をとり、安否の確認をしました。たまたまなのですが…震災が起きた当時は、東京の本郷にあるギャラリーで「都市」を題材にした企画展をおこなっている最中でした。「生きている都市の力を表現したい」と考え、告知フライヤーのメインビジュアルに、都市が躍動しているように見えるよう、ぶれた加工をほどこした写真を使っていたんです。僕たちの伝えようとしていたことが震災とリンクしてしまっていて…これから展覧会をどうしようか、と仲間たちと話し合ったことを覚えています。

被災地には行けませんでした。当時はまだ、神戸とはあまり縁がなかったとこともありますが、それよりも、現場はきっと僕たちの想像をはるかに超えた状態なのではないかという想いがあって…「現場に駆けつけても、じゃまになるのでは」と、気がひけてしまったんです。


「失われた街」模型復元プロジェクト

現在、神戸を拠点に活動している槻橋さんが手がける『「失われた街」模型復元プロジェクト』は、2011年3月11日に起こった東日本大震災をきっかけにスタートしました。失われたまちや村を、縮尺1/500の模型で復元し、そこに住んでいた方々の震災前のふるさとの記憶を模型上に記録して、まちなみや暮らし、思い出を再現していくという試みです。
このプロジェクトをはじめて4年がたちましたが、今思えば、阪神・淡路大震災が起こったときに感じたことや世界の集落調査をしていた経験があったから、今の活動につながっているんだろうなと、ひしひしと感じています。

4まちの記憶が記録される前の、純白の模型(岩手県下閉伊郡山田町、制作:名古屋市立大学+愛知淑徳大学、撮影:太田拓実)

5岩手県宮古市田老町のワークショップ、まちの記憶が次々に色づけされていく(制作:立命館大学、撮影:jason halayko)

大学院生だったころ、アフリカやモロッコの集落を調査していたという槻橋さん。人間がまちをつくるときには自分たちの村や集落のアイデンティティーが表れるものなんです、と言葉を続けます。
世界の集落を調査していると、その地域ならではの風土を大切にしている集落や個性的な住宅があったりします。けれど、そのクリエーションはただおもしろい建築物だというわけでもないし、効率性や合理性だけでつくられたものでもない、その土地とそこに住む人々だからこその理由があるんです。

東日本大震災では、津波の影響で、わずか数時間の間に数えきれないほどのまちなみがなくなったという事実がありました。僕たちが、今までに見てきた海外のまちや村を思い出し…きっと、そのまちにしかない個性的な風景や、住民の暮らしがあったんだろうな、という想いが湧き上がってきて、このプロジェクトをはじめることになったんです。

槻橋さんは2009年までのおよそ6年半、宮城県仙台市にある東北工業大学で講師を務めておられました。さらに、東日本大震災が発生する数日前には、宮城県気仙沼市であるプロジェクトの会議をおこなうなど、東北地方とは浅からぬ関わりがありました。
1995年の阪神・淡路大震災発生から10年後、復興のシンボルとして三宮センター街にとりつけられた大型スクリーン「三宮BOS」を、2011年3月に設置しなおすことになっていました。その大型スクリーンの部品製作をお願いしていたのが、宮城県気仙沼市の高橋工業さん。3月7日に気仙沼で打ち合わせをしたすぐ後に、東日本大震災が発生して…3月25日に予定していた施工は2年間延期となりました。この経緯も「何かしなくてはいけない」という想いを深めた、大きなきっかけのひとつです。


大切なのは、そこにあった暮らしを感じてもらうこと

東日本大震災から2カ月後、槻橋さんは気仙沼市役所の危機管理課を訪れ、『「失われた街」模型復元プロジェクト』を提案します。現地ではそのころ、日々を生きるだけで精いっぱい、まだまだ混乱が続いている状態でした。
東北で『「失われた街」模型復元プロジェクト』をおこなうことで誰かを傷つけてしまわないだろうか、という不安はありました。学生からも実際にそういう声があがって、悩んだこともあります。だけどそれでも一度、提案してみようと思ったんです。

ご家族を亡くした方もおられるでしょうし、とてもデリケートなことですから見たくない方もおられると思いますが…と前置きをして、制作予定の地図をお見せしたら…それまで冷静に話をしていた担当の方が、「なくなったまちが、たとえ模型の姿でもまた見られるんですね」と涙を浮かべてよろこんでくださって。まさか、そんな風に言ってもらえるとは思っていなかったので、意外な展開でした。同時に、その「場所」が持つ強さというものがあるんだなと実感した瞬間でもありました。

DSC_7361模型の制作予定図を見た途端、気仙沼市役所のお二人から涙があふれた(ヒアリングを記録した動画より。動画撮影:槻橋修)

こうして、気仙沼市や住民の方々の協力を得て、学生ボランティアを中心に『「失われた街」模型復元プロジェクト』がスタートします。この模型を制作するのは、全国で建築を学ぶ学生たち。これまでにかかわった学生ボランティアの数は、およそ700名にものぼるとか。ワークショップを通して、住民の方々からお聞きした思い出を、真っ白な模型に「○○さんの家」などと旗に記して記録していきます。
模型は、展覧会の会場にオープンな状態で展示しました。いつ、誰が来ても、いつでもワークショップに参加できるという手法です。展覧会スタイルにしておけば、無理強いすることなく、多少なりとも気軽に参加していただけると考えたんです。復元したまちの様子を目にすることや、現実と向き合うのがつらい方も大勢いらっしゃるでしょうから…。

それでも、訪れた人々が模型をのぞきこむたびにぽつりぽつり、次から次へと本音が出てくるのだとか。
「家族はみんな、亡くなって…」と、ご自身のことを語ってくださる方も大勢おられます。僕たちは寄りそうことしかできないんですが、不思議なことに、記憶を模型に記録していくと、そこに住んでいた方たちの息づかいが感じられるものへと変化していくんです。言葉にするのはむずかしいけれど、そういうところが東北の方々に受け入れてもらえた理由なのかもしれません。建物を復元することが重要なのではなくて、確かにそこに存在した、自分たちの暮らしを感じてもらうことが大切なんです。それぞれが持っている「場所への愛着」が、模型に命を吹き込んでいくのではないかなと。

また、「僕たちは専門家として現地へ行くけれど、まちのことについては全くの素人です」と槻橋さんは語ります。
被災地に限らず言えることですが、そこに住んでいる人たちこそが、そのまちの専門家だと思うんです。僕たちは、建築の専門家としてさまざまな事例をたくさん見ていますから、カタチにして提案することができるだけ。模型で街の記憶を復元していくのは、住民の方たちにしかできないことなんです。

22011年11月、TOTOギャラリー・間「311失われた街」展での、学生の共同作業風景(撮影:桑原良典)


「失われた街」の復元模型が、記憶のスイッチに

さらに、この模型には1人の女性の記憶をよみがえらせたという、印象深いエピソードがあるのだそうです。
岩手県で50年にわたって食料品店を営んでいる、あるおばあちゃんは津波のショックで過去10年ほどの記憶をすっかり失っていました。ある日、復元されたまちの模型を見ようと、展示会場へ足を運んでくださって。はじめは昔のことをまったく思い出せずにいたようなのですが、模型と向き合って10分ほどたったころ、表情がぱっと明るく変化して…あふれるように記憶がよみがえってきたんです。模型が「記憶のスイッチ」としての役割を果たしたのではないかと。その「場所」の記憶をよみがえらせることで、ほかの記憶につながっていくんですよね。その過程を、おばあちゃんは「ゲームみたいで楽しい」と表現しておられましたが、そういう感覚がとっても大切。誰もが持っているであろう記憶を呼び覚ますことが、このプロジェクトの重要なミッションのひとつだと思うんです。

人生のエピソードの多くは「場所」から切り離して考えることができないものであり、「記憶のスイッチ」は、悲しいできごとやうれしいできごとも含めて、模型に再現された「場所」の中から人々が自分で見つけるものだといいます。
「失われた街」の復元模型を通して語られることは、いやなことがあった場所よりも、どこかよそ行き風というか…いい思い出の場所について語られるという特徴があります。お葬式やお通夜のような場所で、亡くなった方とのいい思い出を語ることに似ているなぁと。ある学生が「模型を復元していくことは、まちを弔う儀式のようですね」と言ったことがあって…まさにそうだなと思いました。

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模型が、場所と自分の関係を再構築してくれる

津波の被害によって、無数の大切なものが一瞬にして消滅してしまったまち。被災地に限らず、現代の社会を見つめると、問題を抱えていない地域などないのではないか、と槻橋さんはていねいに言葉を選んでいきます。
東日本大震災のような大災害は予想しづらく、特殊なことです。防災・減災に対する意識を高めてくことももちろん重要ですが、高齢化が進むまちが抱えている課題にどう対応していけばいいのか。成長から衰退へ移行する中、なるべく多くの人が自分のまちを見つめ直して「課題をどう解決していくか」を意識しなければならない時代です。地域のために何かしたいと考え、行動している方には、仕事をリタイアした60代~70代の方々が多く、地域の貴重な知恵や逸話を若い世代に伝えようと思っても、そういう機会も少ないため、なかなか耳をかたむけてもらえないというのが現状です。ですから、このプロジェクトを通して、その地域が持つ豊かさや歴史などが世代を超えて共有されていくようになればという願いもあるんです。

桜の木、お地蔵さんなど…そのまちで育まれてきた小さなシンボルは、地図からは読み取ることができません。けれど模型なら、たとえばその地域でおこなわれていたすべてのお祭りの情景や開催場所について教えてもらって、その記憶を刻んで伝えていくことができるんです。

2014年、岩手県盛岡市で開催された『「失われた街」模型復元プロジェクト』の展覧会では、2013年に1年間かけて取り組んだ、岩手県沿岸部10個所の記憶の模型を展示。2週間でおよそ1万4000人が来場し、地元の方たちだけでなく、その土地にゆかりのある方々も大勢訪れました。
沿岸部から避難してきた方や、沿岸部で生まれた方、友人が沿岸部に住んでいた方など…現在は住民ではないけれど、その場所にご縁のある方も多く足を運んでくださいました。特に、震災後、沿岸部から内陸へ避難した方々の中には、自分は逃げてしまったのだと思い込み、罪の意識をぬぐうことができなくて地元に戻りづらい、という方もいらっしゃるんですよね。模型と向き合うことで、うつ気味になっていた方が元気を取り戻したというエピソードもお聞きました。心理学の箱庭療法ではありませんが…場所と自身の関係性を再構築する重要性を、あらためて感じましたね。

また、生活していた場所に戻れず、別の場所で暮らしていくことは二重のアイデンティティーを抱えることになるため、その人が大切にしていた場所と自分自身がひきさかれたような心境になるのではないか、と槻橋さんは考えをめぐらせます。
この場合の二重生活とは、自ら選択したことではなくて、そうせざるを得ない状況でおこなわれていることが問題です。簡単に解決できることではありませんが、この模型と向き合っていただくことで住んでいた場所の魅力やその地域がどんな風に構築されていったのかを思い出し、その想いも一緒に記録していけたらと思っています。

12014年3月、岩手県盛岡市の盛岡アイーナで開催された「いわて・ふるさとの記憶」会場風景(撮影:伊藤和臣)


いつまでも終わらないプロジェクト

被災した多くの方々の心にそっと寄り添い、ときには失ってしまった記憶を呼び覚ます『「失われた街」模型復元プロジェクト』。今後もさらに、たくさんの模型が無数の人々の記憶で埋め尽くされていく可能性を秘めています。だからこそ、このプロジェクトには終わりがない…と槻橋さんの言葉はますます熱を帯びていきます

槻橋さんは現在、100軒以上の住宅が津波で流されてしまった宮城県気仙沼市大沢地区の、高台への移転計画を進めるプロジェクトに参画中。東北芸術工科大学や横浜市立大学と連携し、学生たちも積極的に関わって毎月集会を開催しており、ここでも模型を使って、地域の方々にもできるだけわかりやすいスタイルでワークショップをおこなっているのだとか。
津波の被害にあわなかった高台エリアに新しい居住地をつくっていくわけですから、もともと住んでいて受け入れる側の方たちにも、これからそのまちに移転する方たちにも、双方に言いづらいことがあると思うんです。僕たちは、両者の橋渡しをする役割も担っている。復興事業は一般的に、被災して仮設住宅に住んでいる方たちにもっぱら目を向けがちですが、自分の住んでいるまちが大きく変わっていくことは、被災しなかった方々にとっても非常に大きな問題なんです。先祖代々受け継がれてきた土地、立ち入ってはいけない土地など、大切に守られてきたものがたくさんあります。だから、その土地の方たちも参加しやすいワークショップをおこなって話をお聞きし、慎重に計画を進めているところです。

その一方では、これから高台に移転する大沢地区の方々との関係をとても大事にしているのだそう。
大沢地区というエリアが丸ごと移転するにあたっては、集落全体の構造を大きく変更しなくてはなりません。まちや村は、実際に住んでみないとわからないもの。そんなときに、模型が重要な役割を担います。「昔住んでいたまちはこうだったんだ」と感じてもらうきっかけになるんです。

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その土地に住む人みんなが、建築家

従来の建築という粋をはるかに超えたフィールドで活動しつづける槻橋さん。建築には、ただハードをつくるだけではなく、人と自然の関わりを考えることが大事なのだと強調します。
まず地形があって、まちがあって、その風景の中に目印になるようなものがあって。そういったもの全体が建築なんだと思っています。僕には、建築が人に見えるんですよね。「この建築は、なんだかかわいそうな建築だ」とか「個性が強くて、味方も敵も多そうだ」という風に、建築には『人格』がある。デザインされたものは、どんなものであっても、その人の思想が表れるもの。元来、建築は、地形や風土など美しいものの流れの中に職人の技術を融合した合作です。現代のまちを見ていて違和感を覚えるのは、合作したように感じられないからなのかなと。社会的にも個人主義的な世の中ですから、「すべてを一緒におこなう」ことにならなくても、せめて、まちや人に関心を持つことが重要なのではないかと思っています。

僕は、その家に住む方々が建築家のようであってほしい、と常々考えています。そうすることで、家と住む人の関係がよりよくなると思うんですよね。意図を共有して、価値を共に結び合わせていくためにも、模型はコミュニケーションツールとして重要なもの。そういう建築家としての経験もあって、被災した事実を受け入れるために模型が必要だと思ったんです。このプロジェクトが、その場所に住んでいた記憶や、写真などの思い出をなくしてしまった方たちの喪失感を埋める存在になればいいなと願っています。


まちへの愛情が深い、神戸の人々

阪神・淡路大震災から20年たった今、槻橋さんは神戸のまちをどのように見つめているのでしょうか。
被災した方々が、それぞれに血のにじむような想いを経験してこられたのだろうと思います。慣れ親しんだまちに住めなくなって、コミュニティが絶たれてしまったことで孤独死などの問題が浮かび上がってきたのは、阪神・淡路大震災が起こったからこそ。その問題を解決しようとがんばってこられた人々がいるという事実は、心から尊敬すべきことです。

神戸の人たちは、全国的に見ても、まちに対する愛情がとても強いですよね。外から見た感想としても、「自然が美しい」というより「まちの雰囲気がいい」と言われることが多いんです。神戸の人たちが、そこに住む人や神戸のまちのことが好きで、そういう想いがこのまちを形成しているんだろうなと感じます。神戸のまちがよりよくなっていくには、昔つくられた洋風の景観や、神戸特有の特殊な地形を「どう楽しんでいけるか」が鍵なのではないでしょうか。

DSC_7421槻橋さんがオフィスをかまえる、デザインクリエイティブセンター神戸(KIITO)にて


(写真/片岡杏子 取材・文/二階堂薫、山森彩)

槻橋修

富山県高岡市生まれ。株式会社ティーハウス建築設計事務所主宰、神戸大学工学部准教授。数多くの店舗や住宅の設計を手がけ、2011年に発生した東日本大震災以降は、甚大な被害をうけたまちに対して、建築の視点からできることを模索しながら支援活動を継続。まちの記憶を復元し、ときには人々の記憶まで呼び覚ます『「失われた街」模型復元プロジェクト』には、全国各地から多数の学生ボランティアが参加。人々の心の復興の支えとなっている。

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