20年前の阪神・淡路大震災以来、神戸の小学校で歌い継がれてきた「しあわせ運べるように」という歌を知っていますか? 作者は、現在は西灘小学校に勤務する音楽専科教諭 臼井真先生。やさしく切ないメロディに彩られた歌は、被災した神戸の人たちを励まし続けてきました。
地震にも 負けない 強い心を持って
亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
傷ついた神戸を 元の姿に戻そう
支えあう心と 明日への希望を胸に
響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる 神戸のまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
歌の最後のフレーズの通り、「しあわせ運べるように」は「生まれ変わる神戸のまち」に響きわたり、現在では10カ国語に翻訳されて、国内外の被災地で歌われる“希望の歌”になりました。
書き下ろし!オリジナル曲で授業する音楽の先生
臼井さんのオリジナル曲づくりの原点は、なんと幼稚園のころ友だちの顔や行動の特徴を捉えた詞をつくり、習い始めたオルガンを弾いて即興で歌っていたそうです。小学校に入学してからはピアノ、中学校ではエレクトーンを習い、高校生のころは合唱部で活動。当時はやりはじめたシンガーソングライターに憧れ、「ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)」に応募したこともあったそう。
大学では声楽を学びながら教職課程も受講。「子どものころから恥ずかしがり屋」だったという臼井さんは、教壇に立つことにはためらいもありました。しかし、高校時代の先輩から「神戸市では小学校でも音楽を教えられる」と聞いて、「小学校の先生なら」と教員採用試験を受験。大学卒業と同時に、神戸市長田区にある志里池小学校に赴任しました。
はじめて子どもたちのために曲を作ったのは赴任して2年目のころ。近くの学校の先生がオリジナルのキャンプ曲をつくっていることを知り、「こういうこともできるな」と思ったのがきっかけでした。
臼井さんは「翼をください」のイメージで、キャンプ曲「心のハーモニー」を作曲。初のオリジナル曲を子どもたちと一緒に歌いました。それからしばらくたって、臼井さんは校庭から届いた聞き覚えのあるメロディに耳をそばだてました。子どもたちが「心のハーモニー」を歌っているのです! 「自分の曲を子どもたちが気に入って歌ってくれている」ことに臼井さんは喜び、また自信を持つこともできました。
子どもは純粋ですから、ダメなときはダメ。でも、いいときは感動をして涙を流しながら歌ってくれる。私自身も、子どもの気持ちになって曲をつくるようにしています。本当に、子どもたちに磨かれて今に至っていますね。
現在までに、臼井さんが作曲した曲はなんと350曲以上。阪神・淡路大震災の直前の5年間は特に作曲数が多く「5年間で150曲くらいつくった」そう。
あのころは、すごいスピードで曲をつくっていました。人生の一つのピークだったかもしれません。その最後を飾る一曲になったのが「しあわせ運べるように」です。
来ない夜明け「次の揺れで死ぬかもしれない」
震災で臼井さんの自宅は、1階がつぶれて2階がそのまま落下。写真の窓は2階のもの、臼井さんはここから脱出し、スリッパのまま10キロ離れた親戚宅まで歩いた
阪神・淡路大震災が起きた朝、臼井さんは金管バンドの早朝練習を指導するために4時半に起床。1階のキッチンで朝食を食べて新聞を読み、2階の自室に戻ってから約2分後にものすごい地鳴り、続いてほっぺたが上下に揺れたほどの凄まじい縦揺れに遭いました。
家中のガラスが割れくだける音、外からは電柱の電線が切れる音……。揺れが収まっても暗闇のなかでは何がどうなっているのか分かりません。余震のたびに「次は死ぬかもしれない」という恐怖と戦いながら、夜明けを待ち続けたそうです。
我が家は、1階がつぶれて2階がそのままずどんと落ちてしまったんです。揺れが収まってから「自分は死んでいたかもしれない」と思って震えました。人間はこんなに簡単に死んでしまうんだ、と。
ご家族は奇跡的に全員無事。さらに、臼井さんが20歳のときに買ってもらった、大切なグランドピアノもまた奇跡的に無傷だったそう。震災後しばらくは楽器店に預かってもらい、今は建て替えられた臼井さんの自宅リビングに戻ってきています。
自宅がなくなるというのは想像を絶する事態でした。私の場合は、両親も老いています。避難所となった学校に行かなければいけない、でもすぐには行けない。自分だけが出遅れたことに負い目すら感じました。でも、当時の校長先生から「学校はみんなでやっているから、家のことをちゃんとしてから出勤してください」と言われて奮い立つことができました。後になって知ったことでしたが、校長先生のご自宅は長田区で、ご自身も被災したにも関わらず温かい言葉をかけてくださっていたんです。
震災から数日後、臼井さんは身を寄せていた親戚の家から出勤しました。小学校周辺は比較的被害が少なかったとはいえ、そこは小学校という名前の「避難所」に変わってしまっていました。
自分自身が「歌に救われ、励まされた」
西灘小学校の音楽室にて。「しあわせ運べるように」をピアノで弾き語る臼井先生
小学校の先生は公務員。阪神・淡路大震災のような大規模災害の際には、学校に開設された避難所の運営業務を支援しなければいけません。救助活動や遺体捜索にあたった先生、遺体安置所となった学校で亡くなった教え子に対面しなければいけなかった先生もいました。震災から20年がたつ今も、教え子を失った心の傷を抱えている先生方も少なくありません。
臼井さんもまた、救援物資の分配や避難所の清掃など、日々の避難所運営に追われる日々を送った先生の一人。「神戸のまち全体がどうなっているかを考える余裕もなかった」という臼井さんが、テレビニュースで三宮のようすを知ったのは、震災から約2週間後の夜でした。
アナウンサーが「三宮です」と言った後、映った映像を見て「三宮じゃない」と思いました。私は神戸生まれ、神戸育ちで、神戸から出たことがありません。子どものころからの思い出がいっぱいあるまちがズタズタになっていることに、ぐっと迫るものがあって。手近な鉛筆を持ってこみあげてきたものを書き付けたんです。
「地震にも負けない 強い心を持って」。
最初のフレーズには、地震に負けそうになっていた臼井さん自身が自分を奮い立たせ、また地震にショックを受けている子どもたちに語りかける気持ちがこめられました。歌詞ができ、メロディが生まれるまでには「10分もかからなかったと思う」と臼井さんは言います。
2月の中旬ごろ、臼井さんはまず3年生の子どもたちにこの歌を教えました。すると、聞いていたボランティアさんたちの目に涙があふれました。そして、「毎朝、ラジオ体操の放送前にこの歌をかけましょう」と、カセットテープに録音した子どもたちの歌声を、学校のスピーカーで流すようになりました。
さらに、お世話になっていた賀来知二先生という方が、「学校再開のときには、この曲を子どもたちと避難者の方たちの橋渡しにしよう」と言ってくださって、職員会議でテープを流してくれたんです。すると、先生方から温かい拍手がわき上がって。
このときやっと「自分にもできることがある」と思えました。震災以降は「音楽の先生なんて何の役にも立たない」「死んでいたほうが楽だったかもしれない」と思い詰めたこともあったんです。私自身が、この曲に救われ、励まされました。
“復興の歌”になった「しあわせ運べるように」
「しあわせをはこぶ天使の歌声合唱団」のプラカード。今も臼井先生のいる音楽室に大切に保管されている
「しあわせ運べるように」というタイトルの背景には、臼井さんが震災の約1年前にはじめた子どもたちによる“歌の宅配”活動がありました。新しい歌を覚えた子どもたちに、「しあわせをはこぶ天使の歌声合唱団」というプラカードを持たせ、校長室や調理室に行って歌を届けるのです。やがて、合唱団は校門に立って学外の人にも歌を届けるようになりました。
歌を届けられた人たちは「疲れがとれたよ」と言ったり、涙を流したりして喜びます。それを見た子どもたちは「歌を届ける」ことへの確かな手応えを感じ、歌を通した心の交流を学んでいたのです。
当初、臼井さんはこの合唱団の名前から、「しあわせを運ぶ歌」というタイトルを考えたそう。ところが、親しくしていた出谷勝先生が、「このタイトルちょっと硬いんちゃう? 最後の歌詞から『しあわせ運べるように』をとって柔らかくしてみたら?」と提案。臼井さんは、意見を受け入れてタイトルを変更しました。
「しあわせ運べるように〜」と先に続く感じがいい。「しあわせを運ぶ天使の歌声合唱団」と、出谷先生のアドバイスがなければ、このタイトルになっていなかったと思います。
1995年2月27日、学校再開の朝会でピアノを弾き、子どもたちと一緒に「しあわせ運べるように」を歌う臼井さん
1995年2月27日、震災から約1カ月後に吾妻小学校は授業を再開。この日の朝会では、臼井さんが電子ピアノを弾き、その周りに集まった子どもたちが「しあわせ運べるように」を歌いました。毎朝、この曲を聴いていた避難者の人たちもまた声を合わせました。
このようすを取材した産經新聞は、「しあわせ運べるように」を「復興の歌」として紹介。「しあわせ運べるように」は、復興のシンボルとして認知されるようになったのです。
世界10カ国語に翻訳。国境を超えるふるさとへの想い
翻訳された「しあわせ運べるように」を楽器を演奏して歌うイランの子どもたち
「しあわせ運べるように」は神戸の小学校で歌い継がれ、また復興のシンボルとして毎年開催される「神戸ルミナリエ」の点灯式や、神戸市の成人式でも歌われています。神戸で生まれ育った人なら、誰もが耳にしたことがある歌になりました。
また、「しあわせ運べるように」は、国内外の被災地にも届けられ、歌われるようにもなりました。2004年6月には、前年に大震災が発生したイランのバムでペルシャ語バージョンが生まれました。同年10月の新潟県中越地震のときには、小千谷市の仮設住宅で「神戸」の部分を「小千谷」に変えたバージョンで歌われました。今では世界10カ国語に翻訳され、世界中で歌われるようになりました。「言語によって、同じメロディが違った感じに聞こえる」と臼井さんは言います。
NHKのニュースでイランの子どもたちが「しあわせ運べるように」のメロディを歌っているのを見たときは感動しましたね。遠い国で、自分のつくった歌を、同じ被災地で……。被災地の人々のふるさと復興への想いは同じだと思いました。
震災から15年目には、佐渡裕さんの指揮で住吉小学校の子どもたちが、皇太子殿下の前で「しあわせ運べるように」を合唱。深く感動した皇太子殿下が鳩山首相(当時)に「この歌を海外に発信できないだろうか」と言われたことがきっかけとなり、中国語と英語のDVDが制作されました。その翌年には、上海万博に集まった国連メンバーの前で臼井さんがスピーチする機会もあったそう。
歌がどんどん力を増していくので、引っ張られていろんなところに一緒に行きました。すごい力でしたね。心の傷はなくならないけれども、大きな傷が少しでも小さくなるなら、それが歌の力なのかな、と思います。
「祈りの気持ちをこめて歌うこと」を伝えたい
復興のシンボル曲『しあわせ運べるように』~神戸から東日本、日本各地、世界へ~(YouTubeより)
「しあわせ運べるように」は、2015年3月10日にNHKで放映されたドラマ「LIVE!LOVE!SING!」で大きなモチーフとして取り上げられました。ドラマでは、福島から神戸に避難している高校生の女の子が「傷ついた神戸(ふるさと)を元の姿に戻そう」という歌詞に反発するシーンがあります。「原発事故で住めなくなった福島は元の姿になんか戻らないから」と。
ドラマのラストシーンでは、「祈ることは誰にも止められないし、祈るためになら歌える」という想いで、彼女は歌ってくれるんです。もとには戻らないけれど「生まれ変わる」という言葉に救われたと。
「響きわたれ ぼくたちの歌 生まれ変わる ふるさとのまちに
届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように」
臼井さんにとって、ふるさとは神戸のまち。震災直後は、「神戸」という言葉の響きだけでも胸が痛んだそうです。壊れたり、失われたりしたときに、その響きだけでもジンと心がうずくのが「ふるさと」ではないか。臼井さんは「子どもたちにも、ふるさと神戸を大事に思ってほしい」と願っています。
もう、先生方のなかで震災を体験した人の割合は約3分の1。被害の大きさの違いによって、神戸市のなかでも1月17日の迎え方にも地域ごとの温度差があるのも事実です。でも、歌う前に遺族代表の方の言葉を聞くだけでも子どもたちの気持ちは違ってくるんです。
震災を体験した我々は、亡くなられた人たち一人ひとりの想い、生きたくても生きられなかった人たちがいたことを、子どもたちに伝えなければいけません。子どもたちが祈りの気持ちを持って「しあわせ運べるように」を歌い継げるように。そして、悲しみに心を寄せることができる、やさしい子どもに育つためにも。
震災直後、避難所になっていた体育館で音楽会を開いたとき、「しあわせ運べるように」を聞いた被災者の一人が、「この歌は、音楽の神さまがそばで聞いてくれていますよ」と臼井さんに言ったそうです。臼井さんを選び、歌をつくらせたのは、たしかに音楽の神さまだったのかもしれません。
傷ついた心も、壊れた家も、ひび割れた大地も、元通りには戻らないかもしれない。人があらゆる希望を失ったときにできることは祈ることだけです。その祈りをたくさんの人と共にできるのが歌です。「しあわせ運べるように」は、「傷ついたふるさと」に涙する人がいるまちへどこまでも遠く届けられ、歌い継がれていくにちがいありません。
(取材・文/杉本恭子)
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