地道な話
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私が寝ていた場所には大きなタンスが倒れて、小学生だった娘の頭上にも窓ガラスやテレビが落ちてくる寸前でしたが…奇跡的に難をのがれ、家族は全員無事でした。すぐに玄関をやぶって、家族と一緒に近くの公園へ避難しました。はじめは辺りが暗くてわからなかったのですが、「いつもの景色と違うな」と。よく見ると、阪神高速道路が倒れていたんです。
明るくなったころ、避難するために近所の小学校へ向かいました。震災発生当日は、建物が倒壊して埋もれていたおばあさんや親子などを、まわりにいた方々と協力して助け出すなど、地域のお手伝いをしていました。
震災発生直後は、とにかくできることをなんでもやりました。支援物資の受け入れと搬送を担当し、ビール瓶に水を入れて届けてくださった方がいらっしゃるなど、おどろいたことも多々ありました。
東灘区役所は国道2号線沿いにあり、渋滞する可能性が高かったので、近くにある神戸市立住吉小学校の前にある小さな公園を基地として利用することになりました。物資は24時間、全国から続々と届けられるので、数日間は公園で野宿をしながら、責任者として常駐していました。テントがなかったので、雨が降ったときは大変でしたね。
当時は、なにもかもが混乱状態でした。情報が先走り、まだ届いていない支援物資を取りに来られる方がいたり、避難所で火元になる可能性があるものを使ってしまい、二次災害の危険が発生したりするなど…問題が絶えませんでした。けれど、地元の責任者の方々とのやりとりが頻繁におこなわれ、一緒に乗り越えていくことで、信頼関係を築くことができた時期だったのではないかと思います。その後も、市役所の職員だけではなく、関係者の方々の間でも、言葉にしなくても通じ合うような場面が多く見られました。なんとかして避難している方たちの力になれないかと、だれもが必死だったのだと思います。
同じマンションに住んでいた方が、娘を県内の別の場所へ避難させてくださって…妻は、マンション横の駐車場にある車の中で避難生活を送っていました。家族のもとに帰れず、心配をかけたかもしれませんが、まわりの方々や親せきに助けていただきました。何よりも家族の理解があったからこそ、神戸市の職員として支援活動に走り回ることができたのだと感じています。
私は、全国から支援に駆けつけてくださった自治体の労働組合の皆さんの受け入れを担当し、避難所の運営やり災証明書を発行するための体制確保などをおこなっていました。り災証明書の発行では、区役所に多くの方々が並ぶため、本当にたくさんの他都市の職員の皆さんにお手伝いしていただきました。また、避難所の運営にも大きな力を発揮してもらいました。震災のあった1月から3月の末までに、およそ3万人が労働組合を通じて応援に来てくださったんです。市の職員だけではとても乗り越えられなかった局面を、全国の皆さんに助けていただいて…。そのときに、今度は支援する側として恩返しをしていこうと決めたんです。
重油タンクが島根県近海で沈没したのち、福井県で座礁したんです。その影響により、風評被害で海産物が売れなくなっていたため、有志で神戸市の職員にあっせんして、トラック2台分ほどのカニや魚を購入しました。
現地での支援活動にはじめてたずさわったのは、2004年に発生した台風23号の影響で、甚大な水害にみまわれた兵庫県豊岡市の日高町でした。マスコミに大きくとりあげられている地域には、復興支援ボランティアが大勢駆けつけていたのですが、マスコミが取り上げないところには、支援の手が届いていませんでした。なんとかしなくてはと思い、支援に駆けつけました。
あまりにも大きな被害だったので、保健所の職員が消毒するだけで精一杯という状態でした。浸水した住宅は、放置しておくと腐食して住めなくなってしまうんです。ですから、労働組合からは二度、派遣隊が現地に入って支援活動をおこないました。現地の方々は、涙を流してよろこんでくださって…。このことをきっかけに、災害が発生したときは、支援の手が足りずに困っている地域に駆けつけるようになりました。
支援をおこなうことは、神戸市の職員としての使命だと思っているんです。阪神・淡路大震災のときは、他都市の方々に本当にたくさん助けていただきましたから、少しでも被災者の皆さんや地元の自治体職員のお役に立ちたいと思っています。
まずは、自分の目で現地の状況を確認、把握すること。どこかで災害が起きると、役所と労働組合の2カ所にお見舞いの連絡をして、現在の状況をお聞きします。ふだんは交流がないところもあるので「なぜ、わざわざ神戸から?」とおどろかれることもありますが、阪神・淡路大震災のときの支援のお礼を述べ、「お力になりたい」という意志をお伝えして現地へ出向くようにしています。現地に着くと、被災状況をお聞きして、「どんな支援が必要なのか」を判断し、支援活動の方針を決定します。
宿泊する場所や食事、道具などもすべて自分たちで用意します。復興支援チームとして派遣した組合員の健康管理のために、市民病院の看護師さんにも必ず同行していただきます。実際、熱中症になってしまった組合員がいて、看護師さんを同行する重要性を再認識した場面もありました。現地では、看護師さんも一緒になって活動をおこなうんですよ。
2007年3月に発生した能登半島地震では、石川県輪島市の隣にある穴水町(あなみずまち)へ支援に駆けつけました。人口1万人ほどのまちなのですが、復興支援ボランティアがほとんどいない状態でした。現地を訪れてすぐ、まちの中を車で走ってみるとあまり被害がないように見えたのですが、副町長さんと話してみると、まちの中心部にある商店街が大きな被害を受けていることがわかったんです。
穴水町の方々には当初、「政令指定都市の大きな団体がなぜ、こんな小さいまちにやって来たんだろう」と戸惑いがあったように思います。けれど、何度も現地に足を運んでいるうちに信頼してもらい、支援を進めていきました。
仮設住宅ができたころ、穴水町の商店街の会長さんから「まちの人たちの元気をとりもどしたい」というお話があったんです。よくよく聞いてみると、7月にまちのお祭りをおこなう予定だったのですが、こんな状況の中で開催すべきか悩んでいるとのことでした。だったら、「復興祭り」として開催しましょう、とご提案したんです。
世界大会に出場するほどの実力をもつ神戸市立兵庫商業高校の中国龍舞・獅子舞の「龍獅団(りゅうしだん)」と、神戸市立須磨翔風高等学校(当時は、神戸市立神戸西高等学校)の和太鼓部のメンバーに、穴水町のお祭りに参加してもらったんです。ほかにも、協力したいという神戸の団体もいらっしゃって…。阪神・淡路大震災でお世話になった恩返しをしたい、という神戸の方々の気持ちを代弁する想いで「復興祭り」を計画しました。
高校生が住民おひとりおひとりに声をかけ、ご高齢の方々は涙を流してよろこんでくださいました。その後は私たちの手を離れ、毎年夏には、穴水町が予算をつけて神戸の高校生たちを祭りに招待してくださって。現在も、その交流は続いています。
2007年7月に発生した新潟県中越沖地震の復興支援活動として、新潟県柏崎市へ行ったとき、あの石川県穴水町の方々と一緒に活動したんです。顔も知らない者同士が現地で合流し、このときはじめて、他の自治体の方たちと共に活動したことをきっかけに「助け合い協定」を結ぶことになりました。これも、これまでの活動で出会ったご縁があったからこそ生まれた絆だなぁと思います。
およそ15時間かけて、宮城県仙台市へ行きました。このときは神戸市の職員として1週間滞在し、仙台市の若林区にある八軒中学校の避難所で支援活動をおこないました。地元の方たちに加え、若林区と宮城野区の海側で津波の被害を受けた方々が、ほとんど着の身着のままで教室に避難しておられました。地元の方たちがしっかりと避難所の管理をおこなっていて、地元の方や学校の先生や生徒が一緒になって炊き出しなどをしていました。
「神戸の経験を語ってもらいましょう」というような話も上がっていましたが、はじめはなかなか打ち解けることができなくて…。けれど、どんなことであっても被災者の皆さんの話をお聞きして、誠実に向き合い、できることをやってみようというのが私の信条。このときも、少しずつ現地の方たちと信頼関係を築けたのではないかと思っています。
離れ離れになってしまったご家族を探すために、自転車を貸してほしいというご要望があって…。困っている方の力になりたいという気持ちは皆さん、同じだったのでしょうね。町内の自治会の方にお願いをして貼り紙をしたところ、10台ほどの自転車が集まりました。
その全国大会は、ちょうど私たちが滞在している期間に開催されることになっていました。がんばってきた生徒さんたちのためにも、ご父兄だけを招待して演奏会を開く予定だったのですが、演奏会のプログラムに軽快なマーチが含まれていて。避難されている方々がおられる中でのことでしたから、校長先生がとても悩んでおられたんです。ですから、避難所の代表の方などに意見をお聞きしたところ、「いろんな意見はあると思いますが、ぜひ私たちも聴きたい、参加したい」と言ってくださったので、演奏会を開催することができました。
とてもすばらしい曲で、心がふるえました。取材に来ていたNHKのニュース番組では、しばらくの間、バックミュージックとして採用されたんです。また、共に支援に駆けつけていた市の職員がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でその様子を発信したところ、神戸市立玉津中学校の先生が大いに共感してくださって、演奏会を毎月開いて義援金を集めるなど、今でも東北と神戸の交流が続いています。
神戸マラソンにご招待して、演奏会を開催しました。600~700人もの神戸市職員や労働組合員たちに「ありがとう神戸」というタイトルで、演奏会をしてくれたんです。曲の合間に、神戸の人たちへのメッセージもくれて…本当に感無量でした。さらに「ありがとう神戸市のみなさん」という旗を贈呈してくださいました。校長先生が読み上げてくださった、中学3年生のメッセージがすばらしくて、今でもわすれられません。その旗は、八軒中学校にも同じものが置いてあるそうで、私たちもさまざまな場面で使用させていただいているんですよ。
石巻市では、被災経験のある神戸市、穴水町、山口市から支援のため長時間かけて集まり、支援活動を行いました。みんなの想いはすでにひとつで、感激しました。災害ができるだけ起こりませんようにと日々願っていますが、支援を通じて新しい関係が生まれ、発展していく側面もあります。そういう経験は、私の人生にとって大きな財産になっているんです。
阪神・淡路大震災の経験は、私にとって原点となり、価値観が大きく変わったできごとでした。神戸で生まれ育った私は、神戸のために少しでも役に立ちたいという想いが強く、これまでに重ねてきた「助け合い協定」の活動やその他の取り組みなどの延長線上なのだという気持ちで、現在もさまざまな活動をしています。お世話になった全国の方々に精一杯の恩返しができるよう、小さくてもいいから、これからも地道に活動を続けていきたいと思っています。