行政職員

地道な話

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お世話になった全国の方々へ、精一杯の恩返しを。あふれる感謝の想いを行動で伝えていく。鹿田嘉博さん

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地域の方たちと共に乗り越え、できることはなんでもやっていた

阪神・淡路大震災発生当時に鹿田さんが住んでいたのは、被害が甚大だった神戸市東灘区の深江本町。阪神高速道路が倒壊した地点から、およそ30mの場所でした。
私が寝ていた場所には大きなタンスが倒れて、小学生だった娘の頭上にも窓ガラスやテレビが落ちてくる寸前でしたが…奇跡的に難をのがれ、家族は全員無事でした。すぐに玄関をやぶって、家族と一緒に近くの公園へ避難しました。はじめは辺りが暗くてわからなかったのですが、「いつもの景色と違うな」と。よく見ると、阪神高速道路が倒れていたんです。

マンションは、壁が壊れて中が見える状態。直せば住める状態だったものの、しばらくは家に入れなかったといいます。
明るくなったころ、避難するために近所の小学校へ向かいました。震災発生当日は、建物が倒壊して埋もれていたおばあさんや親子などを、まわりにいた方々と協力して助け出すなど、地域のお手伝いをしていました。

当時、鹿田さんは神戸市職員労働組合の役員に着任したばかりで、職場は東灘区役所でした。震災発生翌日の朝、東灘区役所に出勤してから10日間、家族のもとへは帰れなかったといいます。
震災発生直後は、とにかくできることをなんでもやりました。支援物資の受け入れと搬送を担当し、ビール瓶に水を入れて届けてくださった方がいらっしゃるなど、おどろいたことも多々ありました。

あちこちの高架が倒壊し、道が分断されるなど、まちはほぼ壊滅状態。そんな中、避難所に支援物資を提供するためのルートを模索し、物資を提供するための二次的な基地を公園に設置しました。
東灘区役所は国道2号線沿いにあり、渋滞する可能性が高かったので、近くにある神戸市立住吉小学校の前にある小さな公園を基地として利用することになりました。物資は24時間、全国から続々と届けられるので、数日間は公園で野宿をしながら、責任者として常駐していました。テントがなかったので、雨が降ったときは大変でしたね。

当時は、なにもかもが混乱状態でした。情報が先走り、まだ届いていない支援物資を取りに来られる方がいたり、避難所で火元になる可能性があるものを使ってしまい、二次災害の危険が発生したりするなど…問題が絶えませんでした。けれど、地元の責任者の方々とのやりとりが頻繁におこなわれ、一緒に乗り越えていくことで、信頼関係を築くことができた時期だったのではないかと思います。その後も、市役所の職員だけではなく、関係者の方々の間でも、言葉にしなくても通じ合うような場面が多く見られました。なんとかして避難している方たちの力になれないかと、だれもが必死だったのだと思います。

冬空の下、支援物資の提供や地域の方々と連携するために全力で動き回っていた鹿田さん。担当地域外にも物資を届けるなど、「できることはなんでもやっていた」という言葉を裏づける、語りつくせないほどのエピソードがあるといいます。そんな鹿田さんですが、支援者として活動する一方で、ご自身もまた被災者でした。
同じマンションに住んでいた方が、娘を県内の別の場所へ避難させてくださって…妻は、マンション横の駐車場にある車の中で避難生活を送っていました。家族のもとに帰れず、心配をかけたかもしれませんが、まわりの方々や親せきに助けていただきました。何よりも家族の理解があったからこそ、神戸市の職員として支援活動に走り回ることができたのだと感じています。

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全国から駆けつけてくださった方々に、恩返しを

支援活動を続ける一方で、神戸市職員労働組合の職務にもどった鹿田さんは、職員のフォローを中心に、震災による被害の程度を証明する「り災証明書」の発行や避難所のお世話などをおこないます。
私は、全国から支援に駆けつけてくださった自治体の労働組合の皆さんの受け入れを担当し、避難所の運営やり災証明書を発行するための体制確保などをおこなっていました。り災証明書の発行では、区役所に多くの方々が並ぶため、本当にたくさんの他都市の職員の皆さんにお手伝いしていただきました。また、避難所の運営にも大きな力を発揮してもらいました。震災のあった1月から3月の末までに、およそ3万人が労働組合を通じて応援に来てくださったんです。市の職員だけではとても乗り越えられなかった局面を、全国の皆さんに助けていただいて…。そのときに、今度は支援する側として恩返しをしていこうと決めたんです。

感謝の気持ちを、実際に行動することでお返ししよう。そう心に誓った鹿田さんが、所属する労働組合としてはじめて支援活動をおこなったのは、1997年に日本海で発生したナホトカ号重油流出事故の後でした。
重油タンクが島根県近海で沈没したのち、福井県で座礁したんです。その影響により、風評被害で海産物が売れなくなっていたため、有志で神戸市の職員にあっせんして、トラック2台分ほどのカニや魚を購入しました。

その後、北海道有珠山が噴火した際には義援金を集め、トルコ大地震の発生時には、復興の経験を知るために神戸へやってきたトルコの方々の激励会をおこなうなど、神戸市職員労働組合としてできることから少しずつ、心のこもった支援を続けていきます。
現地での支援活動にはじめてたずさわったのは、2004年に発生した台風23号の影響で、甚大な水害にみまわれた兵庫県豊岡市の日高町でした。マスコミに大きくとりあげられている地域には、復興支援ボランティアが大勢駆けつけていたのですが、マスコミが取り上げないところには、支援の手が届いていませんでした。なんとかしなくてはと思い、支援に駆けつけました。

日高町に訪れると、ご高齢の方が多いうえ、浸水被害が多かったため、1棟の住宅から泥を出して、家財道具を水洗いして、乾燥させて…住める状態にするまで、20~30人がかりで2日はかかったといいます。
あまりにも大きな被害だったので、保健所の職員が消毒するだけで精一杯という状態でした。浸水した住宅は、放置しておくと腐食して住めなくなってしまうんです。ですから、労働組合からは二度、派遣隊が現地に入って支援活動をおこないました。現地の方々は、涙を流してよろこんでくださって…。このことをきっかけに、災害が発生したときは、支援の手が足りずに困っている地域に駆けつけるようになりました。

①日高町支援活動日高町でおこなわれた、支援活動

日本各地はもちろん、世界のどこかで災害が発生するたびに労働組合として職員の皆さんに募金のお願いをし、義援金を領事館に届けるなど、その後も活動を続けてきた鹿田さん。そのエネルギーの根源は、やはり阪神・淡路大震災を経験したことにあるといいます。そして、訪れた被災地では、「あの大震災を経験した神戸からの支援に励まされる」と、喜んでいただけることもやりがいになっている、と言葉を続けます。
支援をおこなうことは、神戸市の職員としての使命だと思っているんです。阪神・淡路大震災のときは、他都市の方々に本当にたくさん助けていただきましたから、少しでも被災者の皆さんや地元の自治体職員のお役に立ちたいと思っています。


現地の方たちとのご縁から生まれた「助け合い協定」

鹿田さんが所属していた労働組合には、復興支援活動をおこなう際に心がけていることがあります。被災地の状況を自分の目で確かめること、現地の方々に迷惑がかからないよう、支援活動に必要な道具などを準備していくなど、徹底して方針をつらぬいているのだとか。
まずは、自分の目で現地の状況を確認、把握すること。どこかで災害が起きると、役所と労働組合の2カ所にお見舞いの連絡をして、現在の状況をお聞きします。ふだんは交流がないところもあるので「なぜ、わざわざ神戸から?」とおどろかれることもありますが、阪神・淡路大震災のときの支援のお礼を述べ、「お力になりたい」という意志をお伝えして現地へ出向くようにしています。現地に着くと、被災状況をお聞きして、「どんな支援が必要なのか」を判断し、支援活動の方針を決定します。 

宿泊する場所や食事、道具などもすべて自分たちで用意します。復興支援チームとして派遣した組合員の健康管理のために、市民病院の看護師さんにも必ず同行していただきます。実際、熱中症になってしまった組合員がいて、看護師さんを同行する重要性を再認識した場面もありました。現地では、看護師さんも一緒になって活動をおこなうんですよ。

さらに、復興支援活動の際に最も心がけているのが、人手が足りなくて復興が困難だと思われる場所を見つけ出して、復興支援に向かうことなのだそう。
2007年3月に発生した能登半島地震では、石川県輪島市の隣にある穴水町(あなみずまち)へ支援に駆けつけました。人口1万人ほどのまちなのですが、復興支援ボランティアがほとんどいない状態でした。現地を訪れてすぐ、まちの中を車で走ってみるとあまり被害がないように見えたのですが、副町長さんと話してみると、まちの中心部にある商店街が大きな被害を受けていることがわかったんです。

すぐにでも支援活動をはじめようと考えた鹿田さんたち。ですが、穴水町には労働組合がなかったため、支援体制をつくることからスタートしなければなりませんでした。
穴水町の方々には当初、「政令指定都市の大きな団体がなぜ、こんな小さいまちにやって来たんだろう」と戸惑いがあったように思います。けれど、何度も現地に足を運んでいるうちに信頼してもらい、支援を進めていきました。

どんな環境にあっても、現地の方々とのつながりを生み出し、想いをくみあげて支援活動をおこなう鹿田さんたちは、穴水町の方々とも地道に信頼関係を築きあげて「復興祭り」を計画します。
仮設住宅ができたころ、穴水町の商店街の会長さんから「まちの人たちの元気をとりもどしたい」というお話があったんです。よくよく聞いてみると、7月にまちのお祭りをおこなう予定だったのですが、こんな状況の中で開催すべきか悩んでいるとのことでした。だったら、「復興祭り」として開催しましょう、とご提案したんです。

穴水町で毎年7月に開催されるお祭りでは、パレードをおこなうのが恒例だったそう。その話を聞いた鹿田さんは、まちを盛り上げたいとの一心で、神戸の高校生にも声をかけます。
世界大会に出場するほどの実力をもつ神戸市立兵庫商業高校の中国龍舞・獅子舞の「龍獅団(りゅうしだん)」と、神戸市立須磨翔風高等学校(当時は、神戸市立神戸西高等学校)の和太鼓部のメンバーに、穴水町のお祭りに参加してもらったんです。ほかにも、協力したいという神戸の団体もいらっしゃって…。阪神・淡路大震災でお世話になった恩返しをしたい、という神戸の方々の気持ちを代弁する想いで「復興祭り」を計画しました。

そして迎えた、お祭り当日。わずか1万人のまちに大勢の方々が集まってくださったんですよ、と鹿田さんの言葉に熱がこもります。
高校生が住民おひとりおひとりに声をかけ、ご高齢の方々は涙を流してよろこんでくださいました。その後は私たちの手を離れ、毎年夏には、穴水町が予算をつけて神戸の高校生たちを祭りに招待してくださって。現在も、その交流は続いています。

②穴水町祭り1石川県穴水町の「復興祭り」で、パレードをする神戸の高校生

③穴水町祭り2石川県穴水町の「復興祭り」で、よろこびの笑顔をみせる地域の方々

このように、他都市の自治体と信頼関係を築きあげていった鹿田さんは、災害発生時に労働組合が支援しあう「助け合い協定」を創設します。
2007年7月に発生した新潟県中越沖地震の復興支援活動として、新潟県柏崎市へ行ったとき、あの石川県穴水町の方々と一緒に活動したんです。顔も知らない者同士が現地で合流し、このときはじめて、他の自治体の方たちと共に活動したことをきっかけに「助け合い協定」を結ぶことになりました。これも、これまでの活動で出会ったご縁があったからこそ生まれた絆だなぁと思います。


仙台市立八軒中学校との絆

2011年の東日本大震災発生時には、神戸市は支援体制を速やかに整え、3日後には支援部隊を東北へ派遣。鹿田さんも、共にバスへ乗りこんで一路、東北へ。仙台市の内陸部に位置する仙台市立八軒中学校の体育館や武道館には、およそ200人が避難していたといいます。
およそ15時間かけて、宮城県仙台市へ行きました。このときは神戸市の職員として1週間滞在し、仙台市の若林区にある八軒中学校の避難所で支援活動をおこないました。地元の方たちに加え、若林区と宮城野区の海側で津波の被害を受けた方々が、ほとんど着の身着のままで教室に避難しておられました。地元の方たちがしっかりと避難所の管理をおこなっていて、地元の方や学校の先生や生徒が一緒になって炊き出しなどをしていました。

「神戸の経験を語ってもらいましょう」というような話も上がっていましたが、はじめはなかなか打ち解けることができなくて…。けれど、どんなことであっても被災者の皆さんの話をお聞きして、誠実に向き合い、できることをやってみようというのが私の信条。このときも、少しずつ現地の方たちと信頼関係を築けたのではないかと思っています。

この1週間の滞在期間中、地元の自治会の協力を得て自転車を手配するなど、鹿田さんは知恵をしぼって、復興支援活動を続けたそうです。
離れ離れになってしまったご家族を探すために、自転車を貸してほしいというご要望があって…。困っている方の力になりたいという気持ちは皆さん、同じだったのでしょうね。町内の自治会の方にお願いをして貼り紙をしたところ、10台ほどの自転車が集まりました。

やがて、八軒中学校付近のライフラインが再開し、ご近所の方は自宅へもどれるようになり、学校も再開することになったころ。東北でも1位、2位を争う実力があり、九州の全国大会に出場が決まっていた八軒中学校の吹奏楽・合唱部が震災の影響で大会に出られなくなってしまったことを、鹿田さんは知ったといいます。
その全国大会は、ちょうど私たちが滞在している期間に開催されることになっていました。がんばってきた生徒さんたちのためにも、ご父兄だけを招待して演奏会を開く予定だったのですが、演奏会のプログラムに軽快なマーチが含まれていて。避難されている方々がおられる中でのことでしたから、校長先生がとても悩んでおられたんです。ですから、避難所の代表の方などに意見をお聞きしたところ、「いろんな意見はあると思いますが、ぜひ私たちも聴きたい、参加したい」と言ってくださったので、演奏会を開催することができました。

そして、一緒に演奏会を聴いていた鹿田さんは、生徒たちが歌った「あすという日が」という曲に深く感動したといいます。
とてもすばらしい曲で、心がふるえました。取材に来ていたNHKのニュース番組では、しばらくの間、バックミュージックとして採用されたんです。また、共に支援に駆けつけていた市の職員がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でその様子を発信したところ、神戸市立玉津中学校の先生が大いに共感してくださって、演奏会を毎月開いて義援金を集めるなど、今でも東北と神戸の交流が続いています。

また、避難所の運営方法をよりよく変えるなど、鹿田さんたちは神戸に帰る直前まで被災者の方々に寄り添った支援活動を続けます。そうして信頼関係を築いた八軒中学校との交流は、神戸にもどってからも続いたそうです。
神戸マラソンにご招待して、演奏会を開催しました。600~700人もの神戸市職員や労働組合員たちに「ありがとう神戸」というタイトルで、演奏会をしてくれたんです。曲の合間に、神戸の人たちへのメッセージもくれて…本当に感無量でした。さらに「ありがとう神戸市のみなさん」という旗を贈呈してくださいました。校長先生が読み上げてくださった、中学3年生のメッセージがすばらしくて、今でもわすれられません。その旗は、八軒中学校にも同じものが置いてあるそうで、私たちもさまざまな場面で使用させていただいているんですよ。

SONY DSC神戸でおこなわれた、八軒中学校吹奏楽・合唱部のコンサート

⑥旗(ありがとう神戸市のみなさん)仙台市立八軒中学校からの、感謝の旗。今でも、鹿田さんたちの励みになっている


お世話になった全国の方々へ、精一杯の恩返しを

数々の復校支援活動に尽力し、各地で信頼関係を築いてきた鹿田さん。その後も、「助け合い協定」を結んでいる石川県穴水町、山口市の皆さんと岩手県石巻市へ支援に駆けつけるなど、数えきれないほどの取り組みを積極的に展開。現在は石川県穴水町のほか、山口市、大分県日田市や中津市と「助け合い協定」を結んでいるそうです。
石巻市では、被災経験のある神戸市、穴水町、山口市から支援のため長時間かけて集まり、支援活動を行いました。みんなの想いはすでにひとつで、感激しました。災害ができるだけ起こりませんようにと日々願っていますが、支援を通じて新しい関係が生まれ、発展していく側面もあります。そういう経験は、私の人生にとって大きな財産になっているんです。

鹿田さんは、2013年3月に神戸市職員労働組合の本部を退任し、2014年3月に定年退職されました。現在は神戸市西区の櫨谷(はせたに)連絡所の職員として勤務しているとのことで、休日には、ボランティアの観光ガイドとして活躍中なのだとか。
阪神・淡路大震災の経験は、私にとって原点となり、価値観が大きく変わったできごとでした。神戸で生まれ育った私は、神戸のために少しでも役に立ちたいという想いが強く、これまでに重ねてきた「助け合い協定」の活動やその他の取り組みなどの延長線上なのだという気持ちで、現在もさまざまな活動をしています。お世話になった全国の方々に精一杯の恩返しができるよう、小さくてもいいから、これからも地道に活動を続けていきたいと思っています。


DSC_3910観光ボランティアの活動の場でもある、神戸市役所24階の展望ロビーにて。これからも、カタチを変えた支援を続けていきたいと願っているという


(写真/片岡杏子 取材・文/山森彩)

鹿田嘉博

元神戸市職員労働組合副執行委員長。阪神・淡路大震災発生当時は、神戸市職員労働組合の一員として東灘区役所に勤務し、支援活動に奔走。その後、職員労働組合として全国へ復興支援にかけつけ、災害が起きた際に支援しあう「助け合い協定」を他都市と締結。定年退職した現在も、神戸市西区櫨谷(はせたに)連絡所の職員として勤務、休日にはボランティアの観光ガイドとして活躍中。

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