1995 年1月17日月曜日。星加ルリコさんは、東京での大学生活の1年目。学期末に提出するレポートの準備に追われ、徹夜明けの朝を迎えていたそうです。早朝6時、友達からの電話が鳴りました。
「ルリコの家のあたり、震源地だと思うよ」。
慌ててテレビをつけると、兵庫県の地図が映し出されており、実家のある神戸市垂水区に震源地の「×」印が重なっています。目の前が真っ暗になった瞬間でした。
数週間後、神戸に戻った星加さんは、三宮から長田のまちを歩きました。
まちが壊れてしまったこともショックでしたが、それ以上に「自分はこの事態に対して何もできない。あまりにも無力だ」ということが情けなくて涙が止まりませんでした。だから、決めたんです。「私は、神戸のために何かできる人間になろう。そのために、いつか力をつけて神戸に戻って来よう」と。
それから約10年がたち、大きく成長した星加さんは、自分との約束を守り神戸に戻ってきました。
神戸をブランディングする仕事
星加さんは現在、企画・デザイン会社「ルリコプランニング」の代表。アートディレクターとして、店舗プロデュースや商品開発、イベント企画などのほか、神戸のまちに関わる仕事も多く手がけています。
ルリコプランニングの代表的な仕事のひとつは、神戸市に依頼されたユネスコ創造都市ネットワークのデザイン都市の申請書作成です。
行政の方たちは、都市の造成や震災復興などに力点を置いてアピールしてしまっていました。私たちは、「神戸は開港以来どんなふうにデザイン都市であり続けてきたのか」に注目して、そこに関わった「人」にスポットを当てる申請書を練り上げていきました。「神戸はデザイン都市として世界に対してどんなお役立ちができるのか」を発信しないと、ユネスコ側にも認定する意味がないと思ったんです。
星加さんの戦略はみごとに功を奏しました。2008年、神戸はアジアで初めて、世界で4都市目となるデザイン都市に認定されたのです。星加さんが、神戸に戻ってから約6年後のことでした。
自分の無力さが情けなくて泣いたあの日
学生時代の星加さん
星加さんは、高校生のころから「とにかく色々なまちに住んでみたい!」と希望し、東京の武蔵野美術大学彫刻学科に入学。アーティストを志す大学生活を送っていました。阪神・淡路大震災が起きた日は、同じく上京していた姉と電話で話したそうです。
ニュースを見ながら、「きっと自宅は倒壊しただろうし、両親がどうなっているかもわからない」と思いました。その日は夕方まで実家と連絡がつかなかったので「大学を辞めて、神戸に帰らなければいけない」と姉と話し合っていました。
しかし、幸いにも星加さんのご両親は無事。一部倒壊したご実家も予想したほどの被害はありませんでした。「帰ってくるのは、期末試験が終わってからにしなさい」という両親の言葉に従い、星加さんは数週間後を待って神戸に戻りました。
「いったい何が起きたのか、自分の目で確かめたい」と考えた星加さんは、実家に帰る前にまず被災した神戸のまちを歩いてみました。
社会人であれば、まちに対してできることがあったと思います。あるいは、関西にいればせめてボランティアに参加することもできますが、私は親に仕送りをしてもらっている状態で、東京での学業を放り出して帰ってくるわけにもいかない。自分があまりに無力だったからこそ、「いつか必ず神戸のために何かできる人間になろう」と、強く思ったのだと思います。
都市計画に学んだ「暮らしのデザイン」という視点
都市計画設計の会社に勤めていたころの星加さん
それからの星加さんは、「神戸に帰ったときに何ができるか」を常に意識するようになりました。大学での作品制作においても、震災時に見た映像、自らが感じた衝撃やまちの復興を彫刻で表現するようになります。
しかし、「社会とアートを結びつけることができなければ、神戸に帰っても何もできない」と考え、星加さんは思い切って就職活動をはじめます。
まちづくりの仕事なら、何か接点があるかもしれないと思って都市計画設計の会社に就職しようと決めて。勤めた会社では、住宅地の企画とプロモーションの仕事をしました。震災がなければ、そのままアーティストを目指していたと思います。
都市計画の仕事をしていたころ、星加さんは上司から「暮らしをデザインしなさい」とよく言われたそうです。たとえば、北欧の家に憧れる人は「北欧の家」ではなく、「北欧の暮らし」がほしいのです。家や住宅ではなく「暮らしをデザインする」視点を持つようにと教えられたのです。
当時、星加さんが担当した仕事に、茨城県龍ケ崎のニュータウンで展開した「ユアーズ倶楽部」という先進的な住宅地プロジェクトがあります。
「ユアーズ倶楽部」は、「北欧木造住宅」「古民家再生住宅」など、4つのテーマを決めて住民を募集。まちのどこに道路を通すのか、宅地の分譲からオーダーメイドで決められる企画で話題になりました。広告費用がないので、先進的なことをしてメディアに取り上げてもらう戦略ですね。
「北欧」「古民家」というキーワードで集まってきた人たちは、お互いに気が合うのでまちづくりもスムーズだったそう。まさに「暮らしをデザインする」ことで成功した事例です。星加さんは、神戸で仕事をする今も、この視点を大切にしています。
1週間予定の帰省から、まさかの起業!
2002年の11月、星加さんはステップアップのために退職。転職活動の合間を縫って神戸に戻り、都市計画の仕事をしている人たちへのヒアリングを行うことにしました。
折しも、震災から10年が過ぎようとしているタイミング。星加さんは、主に都市計画関連の企業の人たちを対象に「10年前のまちの状況はどうだったのか。あなたは何をして、物理的・精神的な復興をしましたか?」を聴くことにしました。
都市計画では神戸はすごく特別な場所。「神戸こそ、最先端の住宅が密集している」と言われることが多かったんです。ところが私は、神戸のことを何も知らないまま東京に出てしまった。一週間かけて一日二人ずつくらいお会いしていろいろ聴いて、神戸に帰る時に何ができるかを考えてから、また東京に戻り、7〜8年は働くことをイメージしていました。
ところが、ヒアリングに行くと「この人にも話を聴くといいよ」と次のヒアリング先を紹介されます。一週間、また一週間と東京へ帰る予定がどんどん先延ばしになっていくのです。
そして、半年後。星加さんはヒアリングで知り合った住宅設計の会社に「ここに席を置いて仕事するといいよ」と言われ、ついに起業。企画会社を立ち上げます。
女性が起業するときって、成り行きまかせというか。「え、私にできるかな?」と思いながら、周囲に「できるよ」「えー?」みたいな感じが多い気がします。私自身もハングリー精神はなかったですね。
「震災10年 神戸からの発信」の一環として行われた「133days cafe」の仕事が舞い込んだのはそれから間もなくのことでした。
神戸のための初仕事は「133days cafe」
星加さんが手がけた133days cafe「CREATORS KOBE 衣・食・自由」
「133days cafe」は、メリケンパークを会場とした「タイムズ メリケン~神戸からの発信館~」で、133日間にわたって開催。震災から復興した過程で磨きをかけた、神戸の洋服や家具、靴などを紹介する「神戸の技」、神戸の洋菓子店20店による「KOBE洋菓子セレクション」など、神戸の生活文化を発信しました。
星加さんは、神戸のクリエイターたちのオリジナル商品を販売する「CREATORS KOBE 衣・食・自由」の企画とプロモーションを担当しました。
会社をシェアしていた仲間が、神戸市から「133days cafe」のブースデザインを依頼されたんですね。「星加さんは、企画とプロモーションができるからやらない?」と誘われて、ふたつ返事で引き受けました。神戸のために何かしたかったし、しかも震災に関する発信事業だったからめちゃくちゃうれしくて。
まるで、神戸のまちから「おかえり!」と迎え入れられたかのようなご縁でしたが、採算度外視で引き受けてしまった」ため、自分のお給料は約一年半はナシ。スタッフのお給料を支払うために、カードローンに駆け込むことさえあったそうです。
ただ、「133days cafe」は、行政の仕事で日々いろんな人に出会えるので、人脈ができます。だから、「儲からなくてもいい、これは種まきだ」と考えていました。それに「これでダメなら東京に戻ってもいい」とも思っていたんです。
結果的に、「133days cafe」をきっかけに、星加さんはさまざまな仕事のオファーを受けて、ルリコプランニングを軌道に乗せることができたのです。
星加さんは、東京でプロモーションの仕事をする先輩に、「神戸のような地方のマーケットでは、一流の仕事はできないよ」と言われていたそうです。トップを目指すなら、神戸に帰るなんて都落ちに他ならない、と。
ところが、今は「むしろ神戸のほうが独立・起業するクリエイターにチャンスがあった」と感じているそうです。
実は、27、28歳で独立・起業する人が多いそうです。ちょうど、「転職しようか、結婚しようか」と人生に迷う時期でもありますよね。その年頃の若くて優秀な人たちが神戸にたくさん戻ってきてくれたらいいと思います。
東京であれば大手代理店に流れるような仕事も、神戸でならフリーランスや個人事務所で受注できます。事務所の維持費や生活コストも東京に比べれば安く、何よりも海や山が近くて環境もいい。空港も、新幹線もあるので東京との往復にも好都合なのです。
「東京と行き来しながら仕事をするクリエイターが増えて、観光から農業までもっとデザインされればいい」と星加さんは考えています。
神戸だから実現できた「毎日が日曜日!」
六甲・摩耶活性化プロジェクト、月一回のワーキングのようす。中央の大きな紙には「六甲・摩耶 私はこれができるかも?」と参加者のアイデアが書かれている
起業してから10年。今の星加さんの肩書きには、神戸商工会議所デザイン都市推進委員会 副委員長、デザインクリエイティブセンターKOBE 検討委員、「港都 神戸」グランドデザイン 検討委員会、六甲・摩耶活性委員会などがズラリと並んでいます。
いずれも、神戸全体のブランディングに関わる仕事。まさに19歳の星加さんが夢見ていたことがかなったのです。
今は「毎日が日曜日!」で、めっちゃ楽しいです。この10年間、仕事に行きたくないと思ったことはまずないですね。人生は一回きりだから、週末を待つような人生だけはイヤ。このまちに帰ってきたからこそ「Every day’s Sunday!」って言えるんです。
最後に、星加さんに「これから神戸でやりたいこと」を聞いてみました。
私の起業コンセプトは、神戸、そして日本のいいものを世界に発信すること。世界中から神戸のいいものを見にきてもらいたいですね。今、まさにそれができているのが神戸ビーフの仕事。神戸ビーフは、畜産技術の高い日本の農家にしか作れません。世界中の人が「これがいいね」と思ってくれたら絶対に売れるはず。そう思っていただけるようにするのが私たちの仕事です。
また、星加さんは、「誰もが自分でやらなければいけない」という状況だった震災当時は「みんながプレイヤーだった」と言います。あのときの状況を、神戸のまちで暮らす人たちが「プレイヤー」として活躍する方程式に変換する必要性も感じています。
たとえば、生活産業の分野の商品開発で、市民の声を聴く神戸ならではのシステムを企画すること。あるいは、福祉・教育や観光など、まだデザインの介入が少ない分野にデザインの力を活かすこと。暮らしづくりにクリエイターがプレイヤーとして参加すれば、まちはよりいっそう活性化していくはずです。
震災とデザイン。神戸の未来をつくるのは、意外なキーワードの組み合わせなのかもしれません。
(取材・文/杉本恭子)
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