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せっかく授かった生命だから。1人でも多くの人が、元気に暮らしていくための医療をめざしたい。井村裕夫さん

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阪神・淡路大震災で得た、災害医療の教訓

阪神・淡路大震災発生当時は、京都大学の総長を務めておられた井村先生。京都のご自宅で、とても大きな揺れを感じたといいます。テレビに映し出される神戸の惨状におどろき、震災発生後すぐに兵庫県と神戸市に連絡をとって、必要な薬や救護班を送りこむ手配を進めたそうです。
かつては神戸大学の教授を務め、神戸市民だったこともあるので、神戸で暮らす友人知人やまちのことが心配でなりませんでした。けが人が多いだろうと考え、外科医を中心に救護班を編成して、神戸へ派遣しました。けれど実際は…避難所では内科医が必要とされていたんです。災害時の医療というのは迅速な判断力をはじめ、十分な設備のない中で医療をおこなわなければならないなど、従来の医療とは異なる特別な能力が必要とされます。阪神・淡路大震災が発生した当時、災害医療に関する訓練はほとんどなされていませんでした。あの震災後、われわれ医師は反省しながら懸命に学び、災害医療の面で非常に多くの教訓を得てきたのだと思います。

すぐにでも神戸に駆けつけたい衝動にかられながらも、大学の総長という仕事柄、職場をなかなか離れることができなかったという井村先生。震災発生から4~5カ月後にようやく神戸のまちを訪れ、変わり果てたまちの姿を目の当たりにして、あらためて衝撃を受けたのだそうです。
神戸には、神戸大学で教授を務めていたころの弟子や教え子も大勢いましたから、頭の片隅には常に神戸のことがありました。弟子の1人だった医師は、震災後に過労で亡くなりました。西宮から神戸の病院まで毎日徒歩で通い、相当激務だったようで…本当に気の毒でなりませんでした。

DSC_1137医療の難しい話を、言葉を選びながら、分かりやすく語ってくださる井村先生


お役に立てることがあるのなら…

阪神・淡路大震災の発生から3年後の1998年、井村先生は神戸市立医療センター中央市民病院の院長に就任します。
就任直後、笹山幸俊神戸市長(当時)から「神戸の復興を手伝ってほしい」というお話をいただきました。「まちを復興するにあたって、新しい産業を生み出すためにも、神戸は医療産業都市を目指したい」というご相談でした。高齢化が進む日本では、医療産業の需要が高まっていくだろうと私も考えていたので、とてもいいアイデアだと思いました。

阪神・淡路大震災後、まちの生活基盤は比較的早く復旧したものの、それまで盛んだった重工業などの産業が厳しい状況にあることに、神戸市は危機感を抱いていました。高度な技術をもった工場も多く、新しい産業を生み出すことで雇用の機会を増やしたいという願いもあって、これからの時代に必要な産業を見つめ直すことになったのです。
医療産業には、大きく2つのメリットがあります。ひとつは、産業としての需要です。国際的にみれば、先進国が果たすべき役割だという見方もありますし、新しい産業が生まれることで、その土地の雇用の機会やビジネスチャンスを増やすことが可能です。もうひとつは、社会的意義。「病気が治る」ということは、その方の人生はもちろん、ご家族にも非常にポジティブな影響をもたらします。お金では換算できない、たいへん大きな価値があるのです。

ちょうどそのころ、文部科学省が進めていた「21世紀医学・医療懇談会」の座長を務めておられた井村先生は、「トランスレーショナル・リサーチ(橋渡し研究)」をもっと発展させていくべきなのではないかと考えていたそうです。
トランスレーショナル・リサーチとは、基礎研究の成果を、医学の領域で臨床や産業につなげていく手法です。海外ではすでにおこなわれていて、日本は大きく遅れをとっていると感じていました。トランスレーショナル・リサーチを進めるためには、臨床研究センターの整備が必要となります。そんな想いを抱いていたころに、笹山元神戸市長からご提案があったんです。けれど、正直に申し上げますと、神戸には医療産業に関わる歴史が少なかったため、医療産業都市を本当に実現できるのだろうか、と大いにためらいました。

しかし、井村先生のアドバイスをもとに、笹山元神戸市長は自ら海外の医療産業都市へ視察に行くなど、医療産業都市の実現に向けて前進し続けたのだとか。そんな強い意志と熱意に胸を打たれたのです、と井村先生は言葉を続けます。
海外でできているのなら、神戸にもできるはずだという希望を持ちました。そしてなにより、神戸のまちのお役に立てることがあるのなら、やってみようと思ったんです。

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「なんとしても力になりたい」熱意と知恵が結集

こうして、医療産業都市の計画がスタート。医療産業都市の構想をつくっていく会議には、京都大学や大阪大学、神戸大学の医学部長、大阪の国立循環器病センターの総長、神戸市医師会の会長などが集結。さまざまな議論を重ねながら、基本的な構想をまとめていったといいます。
なんとか神戸の力になりたい、という強い気持ちから参加してくださったのでしょう。このような立場の方々が何度も集まるという前例は、これまでになかったんじゃないかと思います。

その後、研究会を結成して、およそ1年をかけて構想が完成。この構想をしっかりと練り上げたことが医療産業都市の軸となり、現在も生きているんです、と語る井村先生。
みなさんのお知恵と熱意がなければ、現在の医療産業都市は実現しなかったことでしょう。みなさんのご尽力に、本当に感謝しています。

こうして、医療産業都市の要となる、高度な専門治療病院や、研究機関、さらに医療関連企業に至るまで、医療にかかわるすべての分野を集約した一大医療拠点「バイオメディカル・クラスター」化の動きがスタートします。以後、神戸・ポートアイランドⅡ期を中心に、医療関連施設が次々に集まりはじめました。
日本で唯一の自然科学の総合研究所、理化学研究所が神戸に一つの拠点を置くことになったのは、医療産業都市を推進していく上で、とても大きな原動力となりました。また、旧・神戸市立医療センター中央市民病院は、老朽化して震災の影響により配管が破裂する可能性があったことから、あたらしく建てかえることになったのです。ならば、先端医療センターを含めた3つの施設を隣接させて、「バイオメディカル・クラスター」の中心にしようと考えました。

現在、小児がんと闘う家族のための施設「チャイルド・ケモ・ハウス」や、高精度放射線治療装置を用いたがん治療がおこなわれる「神戸低侵襲(ていしんしゅう)がん医療センター」、さらに世界的にもその性能が評価されているスーパーコンピュータ「京(けい)」や、286の医療関連企業・団体がポートアイランドに集まりました。神戸は、世界的にみても大規模なバイオメディカル・クラスターへと成長したのです。
まちを、そのまま復興させるだけなら、ここまでの苦労はなかったことでしょう。しかし、神戸市には、新しいことを受け入れてカタチにする伝統と、変革する底力があったのだと思います。

日本では、臨床研究がしづらいという現実がまだまだあります。クラスター化が進むことで、より多くの患者さんを治療することができ、臨床研究に活かすこともできます。また、スーパーコンピュータ「京」ができたことで、高度なシミュレーションが可能となり、基礎研究の精度をより高めることができるようになりました。

従来の産学連携…大学などの教育機関・研究機関と民間企業の関係においては、お互いの施設を行き来しづらい…という大きな壁がありました。たとえば、企業で進める研究は、本来、ある段階に達するまでは機密事項として取り扱われます。一方、大学など公的な研究機関では、秘密保持の文化がありません。ですから、神戸の医療産業都市では、壁をつくらず、簡単に行き来できて話し合いもでき、情報交換も可能な…オープンな場所にしたいと考えていたんです。

H10年7月18日航空写真1998年に撮影した、ポートアイランドのようす

H26年8月26日撮影2014年に撮影。さら地に、次々に完成していく医療関連施設。現在も増え続けている


徒歩で自由に行き来できる、ひらかれた環境づくりを

企業や大学という立場にとらわれず、お互いの文化を知り合う必要があると考えた井村先生は、先端医療センターの設計にひとつのアイデアを盛り込みます。
理化学研究所と先端医療センターの間に渡り廊下をつくって、自由に行き来できるようにしました。理化学研究所でおこなわれる基礎研究と、先端医療センターでおこなう臨床研究を結ぶ、トランスレーショナル・リサーチの象徴になればと考えたのです。そうすることで、お互いに心を開き、医療技術の進歩に必要な情報交換が活発におこなわれるようになりました。

2014年、先端医療センターで、さまざまな臓器・組織の細胞に変化する能力を持つiPS細胞を用いた手術に成功しました。
世界で初めて、iPS細胞を使った網膜シート移植手術がおこなわれ、成功することができたのは、患者さんのご協力はもちろんのこと、当初から目指していた、理化学研究所、先端医療センター、中央市民病院がひとつの場所にあるというクラスター化がもたらした成果だといえるでしょう。まだ十分ではないところもありますが、当時描いていた構想はほぼ実現しました。しかし、医療の研究というものは、薬の開発なども含めて時間がかかります。これからも、この医療産業都市を長い目で見守りながら、よりよいものをつくっていきたいと思っています。

先端医療センター_01理化学研究所(左奥)と先端医療センター(右)。壁のない医療のまちを象徴してかけられた、渡り廊下


1人でも多くの方が、元気で暮らしていけるように

たくさんの方々の協力のもと、理解者が少しずつ増えていき、着実に成長を遂げてきた医療産業都市。現在、神戸の医療産業都市の在り方をお手本にするところも増えているのだとか。

また、2015年3月末には「日本医学会総会 未来EXPO’15」が神戸・ポートアイランドで開催されます。このイベントは、誰もが最新の医学・医療を体験できる、参加型イベントです。どこまでも市民の方々にひらかれたまちにしたいと願う井村先生に、今後の展望をうかがいました。
医療の分野で「アジアなら、神戸」と評されるくらい、発展していくといいですよね。独自の薬の開発や医療技術の開発など、できることはまだまだあります。幸いにも、関西には優秀な医療系の大学が多いですから、密接に協力しあうことが可能です。

また、神戸だけに限らず、これからの日本はもっと国際性を持つべきだと考えます。日本は島国で、諸外国に比べても地理的な問題や言葉、文化の違いが存在します。研究所には外国人のスタッフが増えましたし、これからは外国の患者さんたちにも対応できる病院にしていかなくてはなりません。医療の分野においても、国際性を高めることは大きな課題のひとつなのです。

DSC_1183先端医療センターと理化学研究所を結ぶ、廊下にて

これからは健康であるうちに病気を予防する「先制医療」の充実をはかっていくことが重要だ、と井村先生は言葉を続けます。
現在の病院は、病気になった方がお越しになるのを待っている状況です。けれど、これからはゲノム研究や疫学をもとに病気を未然に防ぐ「先制医療」がますます重要になっていきます。実現するためには、官民問わず、自治体や企業なども含めたみなさんが力をあわせて、社会的なシステムを構築していくことが必要です。

ここ神戸には、市民にひらかれた医療産業都市があります。その技術をさらに高めて、神戸発の新しい医療技術が生まれ、この世に生を受けた方々が、70~80年は元気に暮らしていけるといいですよね。せっかく授かった生命なのだから、できるだけ長く、すこやかに生きていけますように…私たち医療従事者の願いは、そのひとことに尽きるのです。


(写真/片岡杏子 取材・文/山森彩)

井村裕夫

公益財団法人先端医療振興財団理事長。1931生まれ、京都大学医学部を卒業。カリフォルニア大学内科研究員、神戸大学、京都大学にて医学部教授、京都大学医学部長を経て、1991年~1997年に第22代京都大学総長を歴任。1998年に神戸市立医療センター中央市民病院長に就任し、医療産業都市の構想づくりをスタート。2001年、総合科学技術会議議員を経て、2004年より現職。2014年、神戸市名誉市民。

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