つづきがある話
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トラックでも家に突っ込んできたのかと思いましたが、家の周囲を見渡して、これは大変な地震だとわかりました。車で神戸市東灘区にある本社へ向う途中、街のあちこちで火災が発生し、阪神高速道路の倒壊を目にして「これはあかん」と覚悟を決めました。
ファクトリーをどう復旧させるのか、商品をどのように店舗に配送するのかなど問題は山積みでした。しかし、現在の状況に絶望するより、「この災害が会社を変えるきっかけになるかもしれない」と考えました。
神戸の銀行は全く機能していなかったため、メインバンクの東京本店に協力を得て、支払いを行いました。さらに「ロック・フィールドは大丈夫」というメッセージを全ての取引先にFAXで送りました。被災した阪神地区以外の店舗は、1日も休まず営業を継続することができました。品揃えが十分でないにもかかわらず「神戸の企業でしょう。応援するから頑張って」と、全国のお客様が購入してくださいました。それはもう、本当に嬉しかったですね。
静岡ファクトリーでは、約400名の従業員に神戸の状況を報告しました。すると、皆さんが「社長、私たち、何でもやりますから!頑張って下さい」と言ってくれたのです。とても勇気づけられましたね。あのときの感動は、今でも忘れられません。
私たちは「生かされている」。あの震災で生き残ったからだけでなく、数多くの支援から、そのように実感しました。現在では、在籍する社員の8割以上は震災を経験していない世代になりましたが、あの時の経験が風化しないよう、社員に語り続けたいと思います。
あの日は、高知商工会議所で開催された「南海トラフ大震災」に備える勉強会で、講師として阪神淡路大震災の体験を話していました。高知では殆ど揺れを感じなかったのですが、「東北で大きな地震があった」と連絡が入り、講演後すぐに神戸本社へ戻って、夕刻には緊急対策会議を行いました。
東京オフィスでは、研修中だった就職内定者など70名ほどが帰宅できなくなり、オフィスで一夜を明かしましたが、阪神・淡路大震災の経験を活かして備蓄していた毛布や水、食料などがとても役に立ちました。
温かい食べ物が並ぶ中、サラダで良いのか、喜んでもらえるのかと不安でしたが「震災以来、初めて新鮮な野菜を食べました」と、とても喜んでいただけて…。嬉しい反面、神戸とは全く異なる被災状況の中で、もっと何かできたのではないか、という想いを今でも抱いています。
この土地にご縁があったのでしょう。神戸ファクトリーの向かいにあった旧百貨店の物流センターを購入することになったのです。建築家の安藤忠雄さんとともに物流センターの建物内部を確認し、「もったいないから残す」という考え方で、地下の基礎工事をやり直し、建物全体はリノベーションして活用することにしました。
阪神・淡路大震災から10年目となる2005年に、神戸市のメモリアルイベント「震災10年 神戸からの発信」事業が開催されました。イベントの企画段階から携わっていた事もあり、メイン会場のメリケンパーク・神戸海洋博物館に飾られていた、子どもたちに大人気だったシンボルオブジェ「元気の木」を引き取らせてもらったのです。このオブジェは美術家の杉山知子さんの作品で、震災から20年経った今でも、僕にとっては復興のシンボルです。
静岡の保育室では、25名ほどの子どもをお預かりしています。天気の良い日は、子どもたちが周辺の畑や田んぼへ散歩に出かけます。散歩の中で農家のお百姓さんと仲良くなり、「稲穂がスズメに狙われて困っている。かかしを作ってほしい」と依頼された時、子どもたちがかかしを作ってプレゼントしたら、お礼にと新米を1俵まるごといただいたり…。また、園長先生の発案で、釜戸を作りました。子どもたちが集めてきた薪を使ってごはんを炊いたり、調理に使うのです。子どもたちの成長のためには、すごく良いことですね。
また、仕事や社会体験にチャレンジできるテーマパーク「キッザニア」では、新鮮な野菜を使ってジュースを作る体験を通して、食育の取り組みを実践しています。
震災もそうですが、僕は第二次世界大戦を経験し、貧しい時代をなんとか乗り越えて、生かされてきた世代です。自然災害や人災は、これからも起こるかもしれません。試練はときに不幸で、苦しいし、身も心も痛みを伴います。それでも、与えられた試練をどのように活力にして生き抜き、成長していくのか。若い人たちにも、厳しい場面に遭遇した時こそ、創造力を働かせて活力を生み出し、生き抜いてほしいと願っています。
阪神・淡路大震災から20年経った今、神戸はまだ復興途中の部分はありますが、「素晴らしい街」を作ってきた。神戸に限らず、日本は、変化しながら進化する優れたDNAを備えています。だから、これからもっと頑張れると信じている。全ての若い方たちが日本の良さに自信をもって、もっと進化することを期待しています。
神戸は、開港して居留地ができた頃から既にデザイン都市でした。新しいものが行き交い、非常に洗練された街。だからこそ、神戸としての軸をしっかり持って「神戸で暮らしたい」と思われる街作りを、これからも続けて欲しい。それが、真の復興に繋がるのではないかと思っています。