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思わず身を乗り出す話

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神戸は、もっと輝けるはず。心の中に広がる未来を、かたちあるものにしていきたい。フェリシモ 矢崎和彦さん

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幼いころに訪れた、神戸のまちなみにあこがれて

一般的に知られている通信販売とはおもむきが異なり、顧客との直接的なつながりを大切にしているフェリシモが、大阪から神戸へ本社を移転したのは、あの阪神・淡路大震災が起きた1995年のことでした。
神戸は、生活文化の都。東洋と西洋の文化が溶け合った風景をはじめ、新しいものと古いものとが豊かに融合しています。たしか、小学生のころ、家族で神戸へ遊びに来たときに目にした光景がわすれられなくて。まちを行き交う人々の装いがおしゃれだなと感じたり、山と海の近さにおどろいたり、このまちが好きだと思ったことを今でもよく覚えています。いつか、このまちの会社になりたい、とも。

矢崎さんは、フェリシモの3代目の社長。1994年の秋、事業の規模が拡大して大きな配送センターが必要になり、神戸市須磨区で理想的な土地と出会ったことをきっかけに、本社を神戸市中央区へ移転しようと決断。突然の移転発表におどろいたスタッフも多かったものの、当時はちょうど創業30周年を迎えることもあり、明るく前向きな空気が社内にあふれていたそうです。


神戸に移転することは、かたく心に決めていた

けれど、移転が決まった矢先に阪神・淡路大震災が発生、矢崎さんは西宮の自宅で被災したそうです。幸いにもご家族は全員無事で、窓ガラスが割れるなど、被害は最小限で済んだのだとか。
地震が起きると火事になりやすいと聞いていたので、真っ先に火元をチェックしに行きました。窓の外に目をやると、あちこちで火があがっていて…。翌日、当時は大阪府豊中市にあったオフィスへ出社すると、お客様からの応援ファックスやお問い合わせの電話が次々に舞い込みはじめていました。おかげさまで会社は大きな被害もなく、無事でした。くわしい被害状況がわからない中、全国のお客様が心配してくださっているという事実は、非常に大きなはげみになったのです。

移転先の、現在の本社のあるビルが倒壊しそうだという誤報が流れるなど、せっかく決まった神戸への移転がだめになるかもしれない…と悲しい気持ちになったこともあるという矢崎さん。それでも、神戸に移転することをかたく心に決めていたため、現在の本社ビルの安全を確認し、当初の予定から7カ月後の1995年9月に、神戸への移転が完了。意外にも、スタッフから反対の声はあがらなかったのだそうです。
震災が発生したとはいえ、約8カ月経った9月ごろには、神戸のまちがきれいに片付いているのではないかと淡い夢を抱いていたのです。実際に神戸へ来てみると、まちは傷つき、空き地が目立ち、あちこちにブルーシートがかかっていました。あのころは毎日、神戸にいたので気づかなかったけど、まち全体がとても暗かった。震災が起こった年の12月、阪神・淡路大震災で亡くなられた方々への鎮魂の意と、まちの復興・再生の願いを込めて開催された光の彫刻「ルミナリエ」がおこなわれたときに、「今まで、まちは暗かったんだ」と初めて気がつきました。あの「ルミナリエ」をきっかけに、神戸はよい方向へ転じた気がするんですよね。

17.1995年震災支援阪神・淡路大震災が起きた1995年3月に、避難所へ支援物資を届けたようす


100円からできる支援で、息の長い支援活動を

阪神・淡路大震災が起こった直後から、神戸・阪神間にお住まいのお客様の安否確認をおこない、生活に必要な物資を提供。自分たちにできることをしよう、と奔走する矢崎さんたちをおどろかせたのは、全国各地からぞくぞくと寄せられ続けた数えきれないほどの支援でした。
「神戸の方々のために使ってください」と商品代金以上のお金を振り込んでくださる方がおられたり、「おつりを役立ててください」というような支援が増えていったんです。私は、すぐにお礼状を書きました。

多額の義援金が集まったため、赤十字社に寄付をしたものの、お客様からお預かりした大切なお金がどう活用されたのかがよくわからなかったという矢崎さん。これからはさらに息の長い支援が必要になる、と考えて新しい支援のかたちを発案したそうです。
直観的に、復興は短期間では終わらないだろうと思ったんです。そこで「もっと、ずっと、きっと」というキャンペーンをおこない、長期的に支援できるよう、1口100円の義援金を募るしくみをつくりました。また、当時はインターネットがあまり普及していない時代でしたから、被災したお客様と、全国で応援してくださる方々それぞれに、義援金の活用報告を兼ねた手紙をお届けしました。この活動は6年続き、のべ400万人の方々に応援していただいて、4億円もの義援金が集まりました。「学生時代、神戸へ行ったときに見た風景がわすれられない」「仕事があって神戸には駆けつけられないけど、応援したい」という方や子育て中の方など、多くの方々がこの試みに賛同して「100円単位なら自分も参加できる」と、快く支援してくださったんです。本当にありがたく、うれしいことでした。

150108_矢崎和彦さん_DSC_1523フェリシモの想いを伝え続けた、ニューズレター


奇跡を起こした神戸のまち

阪神・淡路大震災が起こるまで「昨日の続きは今日であり、今日の続きが明日である」ことを信じきっていた私たち。震災をはじめとする天災によって日常が突然なくなってしまうことを痛感した今、神戸が経験した震災からこれまでの歩みをどういかしていくかが大切だ、と語る矢崎さん。
ほとんどの人が初めて経験したことで…みんなが、自分にできることを必死にやってきたんですよね。あのパワーは、本当にすごかった。その結果、20年足らずで神戸に美しいまちなみがもどって…イギリスの国際人材コンサルティング会社がオセアニアを含むアジアの都市について調査した「アジアで最も住みやすい都市ランキング」で、第3位に輝くまでになったんです。これは世界に誇れることだと思うんですよね。

海外を見渡してみると、地震が発生してから10年たっても、道などが使えないままの土地もあるそうです。神戸は奇跡を起こしたまちであり、かたちあるものだけでなく、見えないものもふくめた復興を成し遂げてきたまちです。だったらもう1度、さらにもう20年がんばることで「世界一住みたいまち」になるかもしれませんよね。そのくらい強いパワーが、神戸のまちにも、市民ひとりひとりにも秘められているにちがいないと信じています。

150108_矢崎和彦さん_DSC_1557左は、神戸にまつわる商品を集めた「神戸カタログ」。右は、神戸の人々をはげまし続けた長期的な支援の軌跡


阪神・淡路大震災から16年目に起きた、東日本大震災

開放的なフェリシモの本社は、神戸のまちが一望できる高層ビルの中にあります。阪神・淡路大震災から10年目の1月17日、窓の向こうに広がる青空に虹がかかっているのを見て、矢崎さんは感動したといいます。さらに、震災から15年経ったころには大震災を過去のできごととして客観的に見つめられるようになってきており、神戸の人々が前向きに成長していくのを肌で感じていたという矢崎さん。けれど、阪神・淡路大震災から16年後、東日本大震災が発生しました。
2011年3月11日のあの瞬間は、2005年1月17日に虹を見たときと同じ場所にいました。実際に地震が起こったのは東北地方だったわけですが、神戸がようやくここまで立ち直ったのに、再びこんなことになってしまった…と無力感にさいなまれ、とても悲しい気持ちになりました。

悔しさをかみしめるような表情で、言葉にならない想いを語り続ける矢崎さん。東日本大震災が発生した当日は、スタッフを早めに帰宅させたそうです。ところが翌日の土曜日、矢崎さんが出社すると…。
若いスタッフが自発的に集まって「自分たちに、何ができるのか」というテーマを掲げて議論を重ねていたんです。部署の垣根を越えて声をかけ合い、多くのメンバーが会議室に集結していました。ホワイトボードには、これからの支援について、実行するためのアイディアがびっしりと書き出してあって…それを見て私もはげまされ、がんばろうと思えたんです。

東日本大震災発生後には、商品の発送に関することなど、通常の業務にも支障が生じたといいます。けれど、全国のお客様へのフォローに加え、東北地方への支援活動を同時に実行していったのだとか。
先にスタッフが対策を考えてくれていたので、いち早く行動することができました。阪神・淡路大震災で経験したこと、当時おこなったプロジェクトなどをもう一度たぐり寄せ、まずは過去を参考にして、それらを改善しながら実行に移していったのです。私が想像していた以上に、社会性を大切にしているスタッフが数多く育っていたんですね。

150108_矢崎和彦さん_DSC_1474オープンな雰囲気の商談スペースには、いつも活気があふれている


震災を経験した神戸だからできる支援が、あるはず
東日本大震災が発生した翌日、あるスタッフが新潟県中越地震の発生後にボランティアとして現地を訪れたときのことを繰り返し、話していました。「神戸から来ましたと言っただけで、被災した方々が心を開いてくださって、表情が明るくなっていったんです。神戸で暮らす私たちだからこそ、できることがあるはず」なのだと。震災を経験した者同士だからこそ、わかりあえる何かがあるんだろうなと思いました。

2011年5月、矢崎さんは初めて東北へ足を運びます。そして、東北の方々のために何ができるんだろう、と考えに考えてスタートした事業のひとつが「とうほくIPPO(いっぽ)プロジェクト」でした。
東京での仕事を終えた後、時間ができたので新幹線に乗り込んで、仙台へ向かいました。被災地を1時間ほどひたすら歩きまわって…神戸とはまた違う、すさまじい被害を前に涙が止まりませんでした。

私は経営者ですから、事業面で力になれることはないかと模索しました。東北の場合は神戸とちがって、津波ですべてが流されてしまっていたため…まずは働く場をつくることが必要なのではないかと考えたんです。女性を対象に、事業を資金面から支援して産業復興のお手伝いをしようと「とうほくIPPOプロジェクト」をスタート。また、東北で生み出された商品を販売していく「とうほく帖」というカタログを制作しました。

阪神・淡路大震災後に生まれた、復興支援のスローガン「もっと、ずっと、きっと」。このフレーズを胸に、フェリシモでは現在もさまざまな支援活動がおこなわれているそうです。
東北は、神戸とは異なる経験をしました。とてつもなく広大な地域が津波におそわれた上、原子力発電所の事故や産業の衰退などさまざまな問題を抱えています。本当にさまざまな要因があって、すぐに復興するのはむずかしいのかもしれませんが、私たちには事業面での支援ができる。商品を売ったり買ったりするだけの関係ではなく、仕事がないところには仕事をつくって、商品として扱えるものがあれば責任を持って販売することで継続的な支援が可能になるのです。

150108_矢崎和彦さん_DSC_1564見ている方が元気になるほど、東北出身の女性たちのたくましい姿や凛とした笑顔が印象的な「とうほく帖」


東北に、ミュージカルの舞台をつくろう

2011年9月には、東北の子どもたちと一緒にミュージカルを開催。プロのプロデューサーとともに3日間の合宿をおこない、幼稚園児から中学生までの子どもたちが主役のミュージカルをおこなうというチャレンジでした。
仙台在住の、子どもミュージカルを手がけておられる新田新一郎さんと共に企画をおこないました。タイトルは『明けない夜はないから』。舞台に立った子どもたちの中には親御さんを亡くした子もいましたが、公演本番までの間に、少しずつ心を開いていく様子がとても印象的でした。

このミュージカルは、東北各地で3回公演。演者も観客も泣きながらの、感動的な舞台だったといいます。その後、ミュージカルを題材に絵本作家の荒井良二さんと被災地の子どもたちが描いた絵本『明けない夜はないから』も発売されました。
人は、人生の中で役割と舞台を求めているのだと考えています。舞台を鑑賞するのもいいけれど、舞台に立つ方が断然楽しいのではないかなと。舞台に立つと、それぞれが輝くことができるし、元気になれる。だから、私たちは舞台を用意しようと思ったんですよね。

無題舞台に立ち、懸命に歌う子どもたちの姿に、多くの人がはげまされた


ひとつひとつ、心の中にある未来をかたちにしていく

つねに前向きで、エネルギーに満ちあふれている矢崎さん。パワーの源は、どこにあるのでしょうか。
「しあわせ社会学の確立と実践」という理念を抱いていることが大きいですね。私たちは企業活動を通じて「社会をしあわせにする」のだと宣言しており、しあわせという言葉を日常的に使っています。「世の中をハッピーにする何かがしたい」という希望を胸に入社したスタッフが多いせいかもしれませんね。

震災は、本当に過酷でした。もし、人生におけるしあわせの総量が決まっているとしたら、私たちは大変な想いを十分に味わってきたのです。だから、これからはもっともっとしあわせになっていけるのではないかなと思うんです。

最後に、矢崎さんとフェリシモの未来、神戸の未来について、お聞きしました。
2015年の今年、創業50周年をむかえます。いま見えているものやことは、未来ではなく、過去のフェリシモです。未来のフェリシモは、きっとみなさんの心の中にある。それらをひとつひとつ、かたちあるものにしていきたい。私が描いている理想像は、小さいけれどおもしろい事業がたくさん詰まった会社です。

スタッフには「名刺の裏側は自分でつくりなさい」とよく話しています。自分の好きなことで輝いてほしいから。だれかをハッピーにして、自身もハッピーになって、私たちがおこなっていく事業が世の中に広まって…「最大級で最上級のしあわせ」という意味のフェリシモという名前が歴史の1ページに刻まれる日がきたら、すばらしいと思うんですよね。

神戸のまちは、チャンスにあふれています。そのよさをもっと世界にアピールすることで、海外の方々に知ってもらいたい。世界中の人々があこがれ、住んでみたいと思うような都市になってほしいと願っています。


(写真/片岡杏子 取材・文/山森彩)

矢崎和彦

株式会社フェリシモ代表取締役社長。1955年生まれ、学習院大学経済学部卒業、神戸大学大学院経営学研究科修了。大学卒業と同時に同社へ入社、1987年に代表取締役社長に就任。1995年、阪神・淡路大震災が発生した直後の神戸に本社を移転。地域社会に密着した社会貢献活動を積極的におこない、中核価値である「ともにしあわせになるしあわせ」を実践している。創業当初から採用している、自社で企画した洋服や生活雑貨が毎月届くコレクションシステムが人気。

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