コンビニなんてない時代、大賑わいの市場にて
1918(大正7)年に神戸市長田区に設立された「丸五市場」は、元来、中央市場と新中央市場の2つの市場機能を担ってきましたが、1932(昭和7)年の神戸市中央卸売市場の開設に伴い、「丸五市場」として組織が統合。最盛期には約130店舗が軒を連ねる、神戸市内屈指の大きさを誇る市場でした。その一角に『西村鶏肉店』が産声を上げたのは、その2年後、1934(昭和9)年のこと。その店の長男としてこの街で生まれ育った西村政之さんが大学を卒業したのは、日本の総人口が一億人を突破し、トヨタ・カローラや日産・サニーといった大衆車の普及でマイカーブームが舞い起こった「いざなぎ景気」の真っただ中でした。
いわば、大学生はひく手あまたの時代。先輩はみな、名だたる商社へ就職していたし、ありがたいことに、僕にもたくさんのお誘いもありました。そりゃあ、ずいぶん迷ったけれど、弟と一緒に、両親の店を継ぐ決意をしたんです。親は、継げとは一度も言いませんでしたけど、背中を見て育ったから。そういうもんです。大正生まれのオヤジのこと、長男やから、跡継ぎやからというて、特別扱いはしません。「大学へ行ったことは、お前の財産ではあるけれど、内に秘めとけ」。そんな風に言うてましたね。当時は店が2軒あって、職人も10人抱えていましたが、ほかの職人もみな同じ、手取り足取り教えてくれたりはしません。みんな、オヤジの姿、先輩の仕事を、「見て」学ぶんです。
十文字に入り組んだ迷路のような路地に、それでもまだ100軒以上の店を連ねていた丸五市場。スーパーもコンビニもない時代、隣の市場とその賑わいを競い合い、食料品を買い求める人々で、毎日がごった返していた。昭和42年に結婚、その後3人の娘を授かった西村さんは、30歳。
店と家の往復で、まわりのことなんて考えられへんかったよね。
まるで、爆撃を受けたようなありさまやった
けれど、バブルがはじけて時代は昭和から平成に移り、いわゆるインナーシティ現象で長田区の人口は10年で約10万人も減少、消費者ニーズの変化にともない、市場の店舗数も80軒まで減っていました。
そこへ地震や。そやけど、あの日は火曜日でちょうど市場が定休日でしたから、火事を出さずに済みました。あれが火曜日やなかったら、と思うだけでゾッとする。営業日やと、5時半も過ぎたら、豆腐屋が油揚げ揚げる準備を始めとってもええ時間なんです。
前夜飲みに行って深夜に帰宅、こたつでうたた寝していた西村さんの頭の上にもふすまがバタッと落ちてきて、ペシャンコにはなってないけど自宅は全壊。家族の無事を確認したあと、すぐに様子を見に駆けつけた店のレンジも冷蔵庫も、あり得ないところにすっ飛んでいて、目も当てられない。外はといえば、まるで爆撃を受けたようなありさまでした。それでも、なにより火事を出さなかったこと、そして、古い長屋をH形鋼(鉄骨)で補強した造りだったことで、なんとか原型をとどめた丸五市場。「運がよかった」と西村さんは言います。
震災当時のことをまざまざと語ってくださる西村さん。「若いもんに声かけて、当日の夜から夜回りに出たんや」
そやけども、市場見回したら、どこも枠がヒシャゲて、シャッターがヒラヒラしていて、用心もなにもないわけ。前日まで営業してたから、店の中には金庫も商品もそのままやのにね。それで、避難所でじっとしてても状況は変わらへんさかいと、当日の夜から、夜回りに出ることに。組合の理事長、町内の自治会長をしてたのもあって、周りに声をかけたら、30人ほどが集まってくれて。手分けしてね。
それから、ほかにも何ができるやろうと考えて、「無理はせんでもええけど、身体のあったまる食べ物や酒があったら、なんなりと持ってきてくれ」言うて、大きなドラム缶で炊き出しもしました。思いつくことは、なんでもやった。でも、こういうことはみんな、普段から市場や町内でコミュニケーションをしっかりとってたからできたこと。東日本大震災のときも、大勢の人が「つながり」という言葉を口にしたけど、なんでも、ひとりではできません。しかも、100人いたら百人力やない、千人力になるんです。母校の関西学院大学には、「Mastery for Service」というスクールモットーがあるんですけど、ああ、まさにこういうことを言うんやなぁ、と痛感しました。いまも、その気持ちは変わっていません。
人と人のつながりから、街が動き出す
現在、JR新長田駅の南側エリアには、アーケード商店街が東西南北へ続き、駅のそばには高層マンションが何棟も建っています。ここは、阪神・淡路大震災、その後に起きた大火災により、多大なる被害を被った地域。運がよかった西村さんでさえ、貯金をはたいて店を建て直す中、震災から2年後に消費税は3%から5%へと引き上げられ、さまざまに重なる理由で住民の数は減り続け、シャッターを閉ざす店が一軒、また一軒と増えていきました。
現在の丸五市場。震災後も変わらぬ昭和レトロな趣をたたえて、ふんばっている
そんな、どん底とも言える状況の中、1999(平成11)年に兵庫県から2,000万円の助成を受け、新長田地域全体の商店街と市場が力を合わせて取り組んだイベント、「復興大バザール」がなんとか成功しました。大正、昭和とそれまでは、それぞれが各商店街、各市場でやってきたのですが、このときばかりは組合や丁目の垣根を越えて、一丸となって取り組めたからこその成功。そのことをみんなわかっているから、誰となく「この一度きりにせんときましょうや」と。その後、今に至るまで約15年、月1回のまちづくりミーティングが続いています。
そんな街の人々のつながりを受け、神戸市からも助けの手が伸びました。神戸市、商工会議所、シューズプラザ、各商店街、各市場が力を合わせる「神戸ながたTMO(タウン・マネージメント・オーガニゼーション)」の結成です。その結束のひとつの証とも言えるのが、若松公園の鉄人28号の巨大モニュメント。この界隈で青春期を過ごした漫画家、故・横山光輝さんの代表作をこの街にと、地元全体で尽力し、総工費1億3,500万円のうち神戸市からの4,500万円を除く9,000万円もの資金を工面し作り上げた、震災復興のシンボルなのです。
2009(平成21)年10月に完成した、身長18メートル、重量50トンという超ビッグサイズの鉄人28号モニュメント。世界中からファンが訪れる(©光プロ/KOBE鉄人PROJECT 2009)
昔ながらの市場が、どん底から見いだした活路とは
震災後73店舗だった丸五市場は、スーパーへの移転や担い手の老化により、その後も次第に減り続け、20年を経た今、13店舗となりました。「オヤジの時代からしたら、1/10や。なんでも揃うから市場やったのに、なんでも揃わなんだら、もう市場として成り立たない」という西村さんは、悔しさをバネに、行政の力も借りて次の手を打つことにしました。
市場としての機能を失ったことで、「アジア横丁」という愛称で、市場を再活性するアイデアが浮かび上がりました。シャッターを降ろしている商店主を口説いて、店舗部分だけを賃貸し、内装費や家賃といった金銭面を補助して、たくさんの公募の中から台湾屋台とタイ料理店の2つの飲食店を新たに誘致しました。市場の僕らの店がしまうころ、交代のように夕方からふたつのお店が賑わいをつくってくれたらいいなあと。だけど、金銭的補助だけではアカンかった。夕方には市場を後にしていなくなってしまう僕らの目が行き届かず、お客さんがつかずにすぐに窮してしまったんです。
プロジェクトはたった1年で頓挫。それでも、あの大震災を経て、ちょっとやそっと転んでもただでは起き上がらないのが西村さんでした。その反省をふまえて、新たに生まれたイベントが「丸五アジア横丁ナイト屋台」です。
今度は、僕ら市場の商店主も一緒にできるイベントを、と考えたんですね。夏の間だけ月に一度、丸五市場に屋台が出現するんです。このときばかりは、市場の商店も出店するし、この日だけ出店するアジア料理の店もある。そうと決まったらまずは、市場の仲間を説得です(笑)。ここでもやっぱり、「みんなでやる」という意識が必要やったんです。
平成20年の6月から10月まで、全5回の試みは「まるでアジアのどこかの街角に迷い込んだみたい!」と徐々に話題を呼び、大成功。雨だろうと台風だろうと、ハズレなしの毎回大盛況!以降、7年間35回のイベントを重ねるうち、このナイト屋台で「お試し商い」をした店の中から、この市場に腰を据えて営業を始める店も生まれました。
丸五アジア横丁ナイト屋台の様子。7年間で35回、毎回大盛況。来年も、例年通り6〜10月の第3金曜日に開催の予定
「神戸ながたTMO」の一員としてミーテイングを重ね、年間を通じてさまざまな企画を行い、PR紙を発行し、イベントに参加する
同世代はおおむね第一線をリタイアし、悠々自適の老後を過ごす70代。戦後という時代を駆け抜けるように生きてきた西村さんは、次の10年をどんな風に見据えているのでしょう。
お客さんも、神戸市長も、全国から視察にいらっしゃる全国の商店街の方も、みんなが口を揃えて「なんや、これは!」とびっくりしてくれはるほどの賑わいを仕掛けた張本人として、後にはひけんわな(笑)。もちろん、来年も丸五アジア横丁ナイト屋台をやるし、自分の健康のためにも、今の仕事は続けていきたいと思っています。まだまだ、楽しみにしとってな!
(写真/大島拓也 取材・文/高橋マキ)