アクティブな話
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当時、主人が少し遠い川西市の学校に勤務していたので、朝5時半にはごはんが炊けてるように設定してあったんです。それで、ちょうど目覚めかけた矢先に、グラグラと地震が起きました。初めは何が何やらわからず、大きなトラックでも通ったのかしら、とのんきなことを思ったのを覚えています。でも実際はそれどころではなく、目の前では、障子やふすまがまるで自動扉のように開いたり閉まったりしているし、さらに窓の外を見ると、まだ薄暗い中で、電線が全部切れて垂れ下がっているというあり得ない光景が目に飛び込んできました。主人が間一髪で防いでくれたからよかったものの、この子の頭の上にはブラウン管のテレビが転がり落ちてきたんですよ!
グラウンドには、300人はいらしたかしら。でも、引っ越したばかりで赤ん坊がいたというのもあって、ご近所さんといっても知らない方ばかり。だから、同じ教員住宅に暮らしていた12家族のみなさんと一緒だったのが何より心強かったです。避難先の高校では、教員住宅の先生たちが大活躍。よそとはいえ、学校は学校ですからね。どこに何があるかだいたい把握していらっしゃるでしょう? すぐに体育倉庫から体育マット、保健室から救急道具を探し出してきて、怪我をされた方の応急処置などが行われていました。体育の先生が自転車に飛び乗って界隈から折れた木と旗のようなものを拾ってきて、すぐに火をおこしてくださったのも、ほんとうにありがたかったです。
神社だけど、クリスマスになると、宮司さんがサンタさんに変身なさって(笑)。この子も妹も、幼いうちはずっと本物のサンタさんだと思い込んで育ってきたくらいなんですよ。残念ながら、一昨年亡くなられたんですが、網敷天満神社の宮司さんにはほんとうにたくさんの思い出を作っていただきました。震災のあと、大変なこともたくさんあったけど、子どもを通じて大人が自然につながる、地域のひとたちがつながるまちは、わたしにとってとても暮らしやすく、心地よかったんです。
幼稚園のころから、震災の日が近づくたびに家でも先生からも命の大切さといったお話などを聞いて育ってきたし、小学生のころもずっと震災の復興を願って作られた曲「幸せを運べるように」を歌ってきました。でも、母からこんなに深く詳しい話を聞いたのは初めてで、びっくりしています。
中学校3年生のときには、僕たちの募金がどういうひとのためにどのように役立っているかを知るために、学校の代表としてインドまで行かせてもらいました。カルカッタでは、マザー・テレサが設立した「死を待つ人の家」にも行きました。貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設です。ここを訪れたことで意識が変わり、それまで「学校の委員会活動」として行っていたことが、自発的なボランティア活動として自分のなかで意味を持つようになったような気がします。
東日本大震災が起こったときは、まったく信じられない光景をテレビで目の当たりにして大きなショックを受けましたが、すぐには募金くらいしかできなくて。夏になってようやく、ボランティア活動で関わっていたカトリック教会を通じで、宮城県の塩釜に行くことができました。作業は、がれきの撤去と泥かきがほとんどで、現地の方とはそんなに触れ合う機会はありませんでしたが、海外や日本のいろんな地方から僕たちと同じようにやって来た、想いのある人たちとつながることができました。今もfacebookなどを通じて交流があります。もちろん、失うものの大きさは計り知れないけれど、母がずっと僕に言ってきた「災害によって生まれるつながり」って、こういうことなんだと実感しました。
大学へ入学してからも、同じカトリック系の団体に参加する形でしたが、今度は現地でのつながりを大切にしたいという明確な想いをもって石巻へ支援に行きました。現地では、同じように土砂撤去などの作業もしましたが、漁業支援や喫茶手伝いなどで、前回よりも現地の方と関わる機会が多かったです。津波被害が一番大きかった石巻は、震災から2年ちょっとたったというのに、まだ震災後のまま?と見える部分も多くて驚きました。一方で、2年が過ぎてもボランティアセンターにはたくさんボランティアが来ていて、まちには少しずつ活気が出てきていて、人の力、つながりの力が少しずつ芽を出してきているんだなということを感じました。
昨夏には、医者になろうと思ったきっかけの場所でもう一度自分の想いを見つめ直したいと考えて、インドにももう一度行きました。旅はハプニングだらけでしたが、中学生のときは見学しかできなかったマザー・テレサの「死を待つ人の家」で実際にボランティアできたり、マイクロバスからではなく、実際にインドの街を歩いて、空気を吸い、音を聞くことで、たくさんのものを得た気がしています。生きることに精一杯なひと、誰かが生きるのを支えようとする熱い想いを持つひと、様々なひとがいることを知り、貧富の格差や「生」についても考えさせられた旅でした。
ボランティアすることで、みなさんに喜んでもらえるのが純粋にうれしいし、ボランティアを通じて、子どもだった僕の世界は確実に広がり続けてきました。そんな中で気づいたのは、「自分ひとりでできることは少ない」ということ。だからこれからは、自分だけで背負い込んでがむしゃらにやるのではなく、仲間とのチームワークや人とのつながりを生かして、できることを増やしていきたいです。幼いころから母に教えられた「つながり」という言葉は、僕の中でも大きなキーワードになっていて、ボランティア活動を通じて子どもたちに一番伝えたいメッセージでもあります。一方で、父から「自分にしかできないボランティアを探しなさい」と言われた言葉も忘れずに、僕を必要としてもらえる場で、しっかりと自分にできることを探せる大人になりたいと思っています。
震災の当初は、命が助かって良かったと、ただそれだけのことに感謝できました。でも、やはり時がたつとほかにもいろんな欲が出てきます。東日本大震災が起こって、また少し原点に戻れたのかもしれませんね。この子のヨチヨチ歩きのころは、まだ危ないほどデコボコだった道路も、20年たった今はこの通りキレイです。でもやっぱり、心にひきずっている方はいらっしゃるし、まちには解決できていない小さな問題もたくさん残っています。まだまだ途中、という感じですね。だけど、悲しいことを思い出すのではなく、未来に向かって「もっとできること」を考えていきたいですね。