二十歳

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ボランティア活動を通じて、「つながり」という 大切なメッセージを未来に伝えたい。藤本将史さん・隆代さん

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「大丈夫?」と声をかけてもらった、ありがたさ

将史さんのお父さんは、県立高校の教師。結婚したばかりの妻・隆代さんと暮らしていた西宮市の甲陽園から、御影の新築教員住宅に引っ越してきたのは、阪神・淡路大震災の10ヵ月前、1994(平成6)年の3月末のこと。翌月には長男の将史さんが誕生し、隆代さんは、新しい土地での暮らしと初めての子育てに追われながらも、新婚さんらしい、幸せな日々を過ごしていました。
当時、主人が少し遠い川西市の学校に勤務していたので、朝5時半にはごはんが炊けてるように設定してあったんです。それで、ちょうど目覚めかけた矢先に、グラグラと地震が起きました。初めは何が何やらわからず、大きなトラックでも通ったのかしら、とのんきなことを思ったのを覚えています。でも実際はそれどころではなく、目の前では、障子やふすまがまるで自動扉のように開いたり閉まったりしているし、さらに窓の外を見ると、まだ薄暗い中で、電線が全部切れて垂れ下がっているというあり得ない光景が目に飛び込んできました。主人が間一髪で防いでくれたからよかったものの、この子の頭の上にはブラウン管のテレビが転がり落ちてきたんですよ!

あらゆる家財道具がぐちゃぐちゃに飛んだり倒れたりする中、割れたガラスに注意しながら玄関へ向かったご主人が、靴を取ってきてくれました。それでも、しばらく家の中にとどまっていたという隆代さん。外から「大丈夫ですかー?」と声をかけてもらってやっと、生後7ヵ月の将史さんを毛布にくるんで胸に抱き、御影高校のグラウンドへ避難します。
グラウンドには、300人はいらしたかしら。でも、引っ越したばかりで赤ん坊がいたというのもあって、ご近所さんといっても知らない方ばかり。だから、同じ教員住宅に暮らしていた12家族のみなさんと一緒だったのが何より心強かったです。避難先の高校では、教員住宅の先生たちが大活躍。よそとはいえ、学校は学校ですからね。どこに何があるかだいたい把握していらっしゃるでしょう? すぐに体育倉庫から体育マット、保健室から救急道具を探し出してきて、怪我をされた方の応急処置などが行われていました。体育の先生が自転車に飛び乗って界隈から折れた木と旗のようなものを拾ってきて、すぐに火をおこしてくださったのも、ほんとうにありがたかったです。

★_OSH1158「震災後も、ほかに引っ越してしまいたいという気持ちは少しもなかった」という隆代さん

御影といえば、北には関西屈指の高級住宅街、南には灘の酒蔵が広がる街。その間に位置するこのあたりも、昔ながらの木造邸宅が多かったため、まわりの家はほとんど全壊、あるいは半壊といった状態。JRも不通、道路はどこもかしこも通れなくなっていて、亡くなった方も少なくありません。そんな状況の中、しばらく大阪の実家に身を寄せていた藤本さん親子が、再び御影の教員住宅に戻ってきたのは、電気、ガス、水道が全部そろった3月末のことでした。「次に震度5がきたら…という得体の知れない心配より、あの大きな震災を一緒に乗り越えた教員住宅のみなさんや近所の方々と築いた関係性のほうが私たちにとって大切だったということでしょうか」。目と鼻の先に購入した今の新築の一軒家に引っ越すまで14年間、家族はその部屋に暮らし続けます。

子どもを通じて、大人もつながることができたまち

「だんじり祭」といえば大阪の岸和田が有名ですが、神戸の東灘区にも、30基を超えるだんじりがあります。とりわけ、藤本家から歩いてすぐ、JRの北側に位置する「網敷天満神社」の宮司さんは、まちで子どもを育てることに尽力された方で、子どもだんじりをはじめ、盆踊りなどのお祭りでの出店、子供会の開催、夏は住吉川で焼きそば、町内清掃の後には境内で焼き芋と、とにかく年がら年中、子どもたちを楽しませてくれました。
神社だけど、クリスマスになると、宮司さんがサンタさんに変身なさって(笑)。この子も妹も、幼いうちはずっと本物のサンタさんだと思い込んで育ってきたくらいなんですよ。残念ながら、一昨年亡くなられたんですが、網敷天満神社の宮司さんにはほんとうにたくさんの思い出を作っていただきました。震災のあと、大変なこともたくさんあったけど、子どもを通じて大人が自然につながる、地域のひとたちがつながるまちは、わたしにとってとても暮らしやすく、心地よかったんです。

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それまで、隣で神妙な顔をしてお母さんの話しを聞いていた将史さんが、ようやく口を開きます。
幼稚園のころから、震災の日が近づくたびに家でも先生からも命の大切さといったお話などを聞いて育ってきたし、小学生のころもずっと震災の復興を願って作られた曲「幸せを運べるように」を歌ってきました。でも、母からこんなに深く詳しい話を聞いたのは初めてで、びっくりしています。

ハタチの将史さんには、震災時の記憶はもちろんのこと、傷ついたまちの記憶もありません。震災後に建て直した家、古い家屋の跡地を分譲して建てられた家……、古い家の間を埋めるように新しい家がスッキリと建ち並ぶ、今の御影が、彼にとっての見慣れた地元の風景です。「大変だったという話はあまりしていませんね。それより、何かあっても、自分でなんとかして生きる子になってほしいと願ってきました」という隆代さん。「有事の際には、遠くの親戚より近くの他人ということを痛感しました。だから、とにかく普段から、友だちや身近な人を大切にしてほしいの」と、やさしく語ります。

「生きたい」と思う人を助けたい

カトリック系の中高一貫校、六甲学院に進学した将史さんは、「社会奉仕委員会」として、募金活動や、三宮の小野浜公園で行われている炊き出しのお手伝いをするようになります。
中学校3年生のときには、僕たちの募金がどういうひとのためにどのように役立っているかを知るために、学校の代表としてインドまで行かせてもらいました。カルカッタでは、マザー・テレサが設立した「死を待つ人の家」にも行きました。貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設です。ここを訪れたことで意識が変わり、それまで「学校の委員会活動」として行っていたことが、自発的なボランティア活動として自分のなかで意味を持つようになったような気がします。

名称未設定1中学3年生で、インドを訪れた将史さん

インドでの貧困層の暮らしを目の当たりにして、「自分になにができるのか?」という問いを抱いた将史さん。「もっと生きたい、と思うひとを助けられたら」と、高校に入るころには、医学部を目指していました。
東日本大震災が起こったときは、まったく信じられない光景をテレビで目の当たりにして大きなショックを受けましたが、すぐには募金くらいしかできなくて。夏になってようやく、ボランティア活動で関わっていたカトリック教会を通じで、宮城県の塩釜に行くことができました。作業は、がれきの撤去と泥かきがほとんどで、現地の方とはそんなに触れ合う機会はありませんでしたが、海外や日本のいろんな地方から僕たちと同じようにやって来た、想いのある人たちとつながることができました。今もfacebookなどを通じて交流があります。もちろん、失うものの大きさは計り知れないけれど、母がずっと僕に言ってきた「災害によって生まれるつながり」って、こういうことなんだと実感しました。

名称未設定2高校2年生の夏には、東日本大震災後の塩釜(宮城県)でボランティアに携わった

★_OSH1269東北へ行けないときも、大阪でのフォトクリーン(写真洗浄)にはたびたび出かけた将史さん。いつも「自分になにができるか」と考えています

つながってこそできること、自分にしかできないこと

希望が叶って、神戸大学の医学部に在籍する今も、ラグビー部で身体づくりに励みながら、土日は毎週末どこかのボランティアにでかける将史さん。
大学へ入学してからも、同じカトリック系の団体に参加する形でしたが、今度は現地でのつながりを大切にしたいという明確な想いをもって石巻へ支援に行きました。現地では、同じように土砂撤去などの作業もしましたが、漁業支援や喫茶手伝いなどで、前回よりも現地の方と関わる機会が多かったです。津波被害が一番大きかった石巻は、震災から2年ちょっとたったというのに、まだ震災後のまま?と見える部分も多くて驚きました。一方で、2年が過ぎてもボランティアセンターにはたくさんボランティアが来ていて、まちには少しずつ活気が出てきていて、人の力、つながりの力が少しずつ芽を出してきているんだなということを感じました。

昨夏には、医者になろうと思ったきっかけの場所でもう一度自分の想いを見つめ直したいと考えて、インドにももう一度行きました。旅はハプニングだらけでしたが、中学生のときは見学しかできなかったマザー・テレサの「死を待つ人の家」で実際にボランティアできたり、マイクロバスからではなく、実際にインドの街を歩いて、空気を吸い、音を聞くことで、たくさんのものを得た気がしています。生きることに精一杯なひと、誰かが生きるのを支えようとする熱い想いを持つひと、様々なひとがいることを知り、貧富の格差や「生」についても考えさせられた旅でした。

とはいえ、本業は学業のハタチの大学生。「ボランティアはいいことなんだけど、ちょっと自分のことがおそろかになっていないかしら…」と、隆代さんが少々心配になるのも無理はありません。そこは自分でも思い当たることがあるのか、将史さんは苦笑いしつつも、こう言います。
ボランティアすることで、みなさんに喜んでもらえるのが純粋にうれしいし、ボランティアを通じて、子どもだった僕の世界は確実に広がり続けてきました。そんな中で気づいたのは、「自分ひとりでできることは少ない」ということ。だからこれからは、自分だけで背負い込んでがむしゃらにやるのではなく、仲間とのチームワークや人とのつながりを生かして、できることを増やしていきたいです。幼いころから母に教えられた「つながり」という言葉は、僕の中でも大きなキーワードになっていて、ボランティア活動を通じて子どもたちに一番伝えたいメッセージでもあります。一方で、父から「自分にしかできないボランティアを探しなさい」と言われた言葉も忘れずに、僕を必要としてもらえる場で、しっかりと自分にできることを探せる大人になりたいと思っています。

★_OSH1324「患者さんの心に寄り添えるお医者さんになってほしいです」と隆代さん

★_OSH1327小学生のときに作ったメッセージTシャツ。10歳の自分と

ボランティア活動によって、モノの見方が変わり、ひととつながり、広がり続けた世界。「でも、東日本大震災の経験を経て、意識が改めて地元・神戸に戻ってきたような気もしています」。そういえば、とお母さんが思い出のTシャツを出してきてくれました。そこに書かれているのは、「震災のけいけんをいかして もっとすみやすい神戸にしよう」という、10歳の将史さんからのメッセージ。10歳と20歳の我が子を見比べるうち、隆代さんのまちへの想いが、ことばとなってあふれました。
震災の当初は、命が助かって良かったと、ただそれだけのことに感謝できました。でも、やはり時がたつとほかにもいろんな欲が出てきます。東日本大震災が起こって、また少し原点に戻れたのかもしれませんね。この子のヨチヨチ歩きのころは、まだ危ないほどデコボコだった道路も、20年たった今はこの通りキレイです。でもやっぱり、心にひきずっている方はいらっしゃるし、まちには解決できていない小さな問題もたくさん残っています。まだまだ途中、という感じですね。だけど、悲しいことを思い出すのではなく、未来に向かって「もっとできること」を考えていきたいですね。

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fujimoto将史さんからお母さんへのメッセージ

(写真/大島拓也 取材・文/高橋マキ)

藤本将史(まさふみ)

平成6年6月、神戸市生まれ。生後7ヵ月で東灘区にて阪神・淡路大震災被災。六甲高等学校卒業後、神戸大学医学部に在学中。

藤本隆代

昭和39年大阪市生まれ。大学卒業後、大阪でOLとして働いたのち、28歳で結婚、29歳で長男を出産。現在は専業主婦。

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