二十歳

勇気が出る話

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震災当日、たくさんの人に助けられて出産に挑んだ、元気印のお母さんとハタチの息子。田中大地さん・成美さん

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あの日の朝から、産休に入る予定でした

生まれ故郷の関西を離れ、社会人競技スキーの選手として赴任した長野県でパートナーと出会い、結婚。時代はバブル期、しばらく子どもに恵まれなかったが、関西に戻って灘区に新築マンションを購入した後、ほどなく長女、4年後には2人目の子を授かり、妻として母として、成美さんは順風満帆の人生を送っていました。
あの日はたしか、1週間の始まりの日だったでしょう? みんなが「さぁ、今日から仕事!」という日。わたしは、2人目の子の出産を4週後に控えて、ちょうどその日から産休の予定だったんです。2人目だから準備も産休に入ってからでいいわ、と余裕で、大丸にでもお買い物に行こうかなって。地震は、その早朝の出来事でした。水が出ないので、マンションの下にいただきに行ったりアレコレと、午前中に少しバタバタしていたら……、アレ?なんだか身体がおかしいゾ、と。午後になって出産の徴候だと気づいたものの、旦那さんは少し足を怪我していて、長女も見ていてもらわなければならないので、「ひとりで病院に行ってくるわ」と、軽乗用車に乗って出かけました。そう。テレビも映らないし、ラジオも持ってなかったので、このときは外の状況を全然知らなかったのです。

出産を予定していた病院を目指すうち、全貌はわからないまでも、とにかく想像を超える異常な事態なのだということがわかってきた成美さんは、「あそこが燃えている」「道路が落ちて、43号線は通れない」と信じられない状況を人づてに耳にし、南に向かうのを諦めて、東を目指します。
何もかもがとにかくひどいことになっている中、国道2号線を東へ向かいました。車はちっとも前に進まず、普段は15分程度の東灘区役所あたりまで、なんと3時間。やっと病院を見つけたのですが、怪我をした人、亡くなった方でいっぱい。それに、産科もない。でも、かろうじて婦人科の経験のある婦長さんが診てくださって、「もうじき生まれるわ!」「東はもうこれ以上行ってもダメ、とにかく北へ向かいなさい!」「水はあげられないけど、バスタオルはあげるから、たくさん持って行きなさい」と、的確なアドバイスをくださったんです。「わたし、どうなるんやろ……」と、ひとりぼっちで不安で仕方がありませんでしたが、迷っている暇はありません。再び車のハンドルを握り直して北区を目指すも、六甲の高羽の交差点あたりで陣痛が始まってしまいました。

痛みで失神しそうになりながら自家用車を乗り捨てた成美さんは、通りがかりの車をヒッチハイク。痛みと不安に耐え、歩く速度よりも遅い車でようやく北区有野台の病院にたどり着き、なんとか無事にベッドの上で男児を出産することができました。
病院に着いて、ものの15分で出産!体調の異変に気づいてから、ほぼ12時間、肉体的にも精神的にも、ほんとうにギリギリだったと思う。さらには、真夜中で、有馬のヘリポートから運ばれる怪我人や亡くなった方もたくさんいて、たったひとりで子どもを産んで、家族への電話も繋がらなくて。相当へこたれてメソメソしていた私を見かねた同室の方のご家族が、「オレが実家に知らせて来てやるよ!」って助けてくださって、それでやっと家族に連絡が取れたんです。

加えて、なんといっても助けられたのは、高羽の交差点から、身重の成美さんを病院まで連れて行ってくれた、名も知らないご夫妻でした。
何度も何度も名前を聞いたんですが、最後まで教えてもらえなくて。「自分たちにお礼はいらないから、子どもをちゃんと育てなさい」と。この言葉は、いまもずっと、わたしの胸に刻まれています。

_OSH8848阪神・淡路大震災の翌朝、出産を経験した田中成美さん


生活が一変、「人生の恩返し」へ

なにもかもが信じがたいほど大変だったあの日、たくさんの人に助けられた尊い小さな命は無事に誕生し、大地と名付けられてスクスクと成長しましたが、阪神・淡路大震災は、成美さんの人生とその価値観をがらりと変えました。震災後、旦那さんとは別居、自身も大きな病を経て、大企業勤務から自営業に転身することに…。
別居が長かったのもあり、しばらくは実家に頼りながら子育てしてきたんですが、この子が小学校3年生のときに、この街にやってきました。新卒で初めてひとり暮らしした寮が阪急岡本の駅前だったので、なじみがあったんです。それまでずっと大企業に勤めてきましたが、震災を機にやっぱりさまざまな価値観が変わり、自分のやりたいことをやろうと心に決め、6年前に今の仕事を起業しました。

WEB制作会社を起業した成美さんは、パソコン教室の講師として岡本商店街と関わるようになります。4年前、東北で大震災が起こったときも、商店街組合の会議中でした。
阪神・淡路大震災のときに、宮城県からも多くのご支援をいただいたそうなんです。「商売人は、商売人を応援していこう!」という理事のみなさんの声に私も大賛成し、月イチペースでマイクロバスで現地へ赴いて向こうの方々と関係性を築き、2012年2月に岡本商店街の中に気仙沼のアンテナショップ『気仙沼まただいん』を立ち上げました。私は、スタートアップ時からずっと、現地の事業者さんとのコミュニケーションを主に担当する窓口のような立場で関わっています。ふたりの子どももそろそろ自立するでしょう?「ああ、人生のお返しのタイミングだな」って。それが私にとっての東北支援なんです。

震災直後に必要な毛布や水も、1年経ったらもう必要ない。1年後、3年後にそれぞれ必要なものがある。例えば、辛くも悲しくもない何でもないときに、テレビを見ていて、電車に乗っていて、ふと涙がぽろぽろこぼれたりするのは、2年目あたりのこと。それがわかってる自分たちだからこそ、できることがある。神戸の人たちは、そんな風に思っていると言います。
商店街だけでなく、神戸市内のさまざまな団体と横で連携を取りながらボランティア活動をする私たちを見て、気仙沼のみなさんが「楽しそうでいいわねえ」とおっしゃったのをきっかけに、震災のことをお茶やお菓子を食べながら語り合う、東北&神戸女子会を開催しました。ほら、よく知らない人だからこそ話せる悩みってあるでしょう?個人個人で向き合わなくてはいけない問題がそれぞれにあって、だから今はちょうど、女性同士でしゃべることで発散することが大事な時期なのかなって。10年続けられたらいいなって思える活動です。

1_n気仙沼でスタートした「東北&神戸女子会」。なんでもないことで、笑って、時々泣いて、また笑って

7_n昨年11月に行われた「第2回東北&神戸女子会」の様子

_OSH9027岡本商店街復興支援ショップ『気仙沼まただいん』では、商品の仕入れを担当


20年の節目、子育ても終わる

阪神・淡路震災20年の節目、大地さんもいよいよハタチ。たくさんの人に助けられ、支えられ、女手ひとつで奮闘してきた成美さんの子育ても一段落。社会人になった大地さんから見た成美さんは、どんなお母さんなのでしょう。
小さい頃から散々ガミガミ言われてイヤやったけど、社会人になって、そのありがたみがよくわかるようになりました。例えば、箸の持ち方、いただきますごちそうさまがちゃんと言えること、玄関で靴を揃えること。それができるだけで「ええ子やな」って見てもらえるから、そこは、お母さんほんまにありがとうって思ってる。東北支援は楽しそうにやってるから、これからもどんどん続けてほしいな。

お母さんのボランティアのお手伝いはしているものの、まだ東北には行ったことがないという大地さん。震災について、特別な思いはない気がする、と言います。
正直、そんなに特別なことではないと思っている。同世代の人はみんな同じじゃないかな。だって、経験してないから記憶もないし、まだ人生の年月も短いから神戸のまちにそれほどの思い入れもないし。「震災の翌日に生まれました」というのは、一発で覚えてもらいやすいからコミュニケーションのきっかけにはなるけど、自分からわざわざ言ったりもしないしね。東日本大震災のときに改めて感じたのは、僕が生き延びたんじゃなくて、周りの人がお母さんを助けて僕を生かしてくれたんだなってこと。でも、ニュースを見たり学校で学んだりするより、お母さんのボランティア活動に関わる身近な人たちから実感することのほうがリアルですね。

_OSH8937田中大地さん。「僕が生き延びたんじゃなくて、周りの人がお母さんを助けてくれたから、僕が生まれたんです」

将来は、人とコミュニケーションを紡ぐ仕事がしたいという彼の隣で、「これからは自由に生きてほしい」と言いながら、ついまだまだ口を出してしまうことの多い成美さん。それでも、子育ても震災後の人生も、ひとつの節目を迎える今年、次の10年の目標は「神戸をもっともっと好きになること」だと言います。
子育てが終わりますから、まずは少しでも若いうちに、神戸以外の「外」を見たいと思っています。東北だけじゃなく、海外にも行きたい。これから先ずっと、大好きなこのまちから離れずに生きていくと思うので、今のうちにね。港があって、昔からいろんなモノが入ってきて、それを受け入れてきたまちが、神戸。教育・文化も国際的だし、だからこそ私も外でのさまざまな経験を通して改めてこのまちを見直して、この大変な20年を乗り越えてきた神戸を、もっともっと、好きになりたいなって思っています。

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tanaka大地さんから、お母さんへのメッセージ


(写真/大島拓也 取材・文/高橋マキ)

田中大地

平成7年1月18日5時15分生まれ。村野工業高校を卒業後、印刷会社に勤務。趣味の釣りを始めたばかりの社会人2年生。

田中成美

昭和36年、大阪市淀川区生まれ、神戸市東灘区岡本在住。大阪成蹊短期大学卒業後、競技スキーを職業として8年間暮らした長野県を経て再び関西へ戻り、二児の母となる。WEB制作会社「株式会社ルミ・ネ」代表。

 

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