勇気が出る話
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あの日はたしか、1週間の始まりの日だったでしょう? みんなが「さぁ、今日から仕事!」という日。わたしは、2人目の子の出産を4週後に控えて、ちょうどその日から産休の予定だったんです。2人目だから準備も産休に入ってからでいいわ、と余裕で、大丸にでもお買い物に行こうかなって。地震は、その早朝の出来事でした。水が出ないので、マンションの下にいただきに行ったりアレコレと、午前中に少しバタバタしていたら……、アレ?なんだか身体がおかしいゾ、と。午後になって出産の徴候だと気づいたものの、旦那さんは少し足を怪我していて、長女も見ていてもらわなければならないので、「ひとりで病院に行ってくるわ」と、軽乗用車に乗って出かけました。そう。テレビも映らないし、ラジオも持ってなかったので、このときは外の状況を全然知らなかったのです。
何もかもがとにかくひどいことになっている中、国道2号線を東へ向かいました。車はちっとも前に進まず、普段は15分程度の東灘区役所あたりまで、なんと3時間。やっと病院を見つけたのですが、怪我をした人、亡くなった方でいっぱい。それに、産科もない。でも、かろうじて婦人科の経験のある婦長さんが診てくださって、「もうじき生まれるわ!」「東はもうこれ以上行ってもダメ、とにかく北へ向かいなさい!」「水はあげられないけど、バスタオルはあげるから、たくさん持って行きなさい」と、的確なアドバイスをくださったんです。「わたし、どうなるんやろ……」と、ひとりぼっちで不安で仕方がありませんでしたが、迷っている暇はありません。再び車のハンドルを握り直して北区を目指すも、六甲の高羽の交差点あたりで陣痛が始まってしまいました。
病院に着いて、ものの15分で出産!体調の異変に気づいてから、ほぼ12時間、肉体的にも精神的にも、ほんとうにギリギリだったと思う。さらには、真夜中で、有馬のヘリポートから運ばれる怪我人や亡くなった方もたくさんいて、たったひとりで子どもを産んで、家族への電話も繋がらなくて。相当へこたれてメソメソしていた私を見かねた同室の方のご家族が、「オレが実家に知らせて来てやるよ!」って助けてくださって、それでやっと家族に連絡が取れたんです。
何度も何度も名前を聞いたんですが、最後まで教えてもらえなくて。「自分たちにお礼はいらないから、子どもをちゃんと育てなさい」と。この言葉は、いまもずっと、わたしの胸に刻まれています。
別居が長かったのもあり、しばらくは実家に頼りながら子育てしてきたんですが、この子が小学校3年生のときに、この街にやってきました。新卒で初めてひとり暮らしした寮が阪急岡本の駅前だったので、なじみがあったんです。それまでずっと大企業に勤めてきましたが、震災を機にやっぱりさまざまな価値観が変わり、自分のやりたいことをやろうと心に決め、6年前に今の仕事を起業しました。
阪神・淡路大震災のときに、宮城県からも多くのご支援をいただいたそうなんです。「商売人は、商売人を応援していこう!」という理事のみなさんの声に私も大賛成し、月イチペースでマイクロバスで現地へ赴いて向こうの方々と関係性を築き、2012年2月に岡本商店街の中に気仙沼のアンテナショップ『気仙沼まただいん』を立ち上げました。私は、スタートアップ時からずっと、現地の事業者さんとのコミュニケーションを主に担当する窓口のような立場で関わっています。ふたりの子どももそろそろ自立するでしょう?「ああ、人生のお返しのタイミングだな」って。それが私にとっての東北支援なんです。
商店街だけでなく、神戸市内のさまざまな団体と横で連携を取りながらボランティア活動をする私たちを見て、気仙沼のみなさんが「楽しそうでいいわねえ」とおっしゃったのをきっかけに、震災のことをお茶やお菓子を食べながら語り合う、東北&神戸女子会を開催しました。ほら、よく知らない人だからこそ話せる悩みってあるでしょう?個人個人で向き合わなくてはいけない問題がそれぞれにあって、だから今はちょうど、女性同士でしゃべることで発散することが大事な時期なのかなって。10年続けられたらいいなって思える活動です。
小さい頃から散々ガミガミ言われてイヤやったけど、社会人になって、そのありがたみがよくわかるようになりました。例えば、箸の持ち方、いただきますごちそうさまがちゃんと言えること、玄関で靴を揃えること。それができるだけで「ええ子やな」って見てもらえるから、そこは、お母さんほんまにありがとうって思ってる。東北支援は楽しそうにやってるから、これからもどんどん続けてほしいな。
正直、そんなに特別なことではないと思っている。同世代の人はみんな同じじゃないかな。だって、経験してないから記憶もないし、まだ人生の年月も短いから神戸のまちにそれほどの思い入れもないし。「震災の翌日に生まれました」というのは、一発で覚えてもらいやすいからコミュニケーションのきっかけにはなるけど、自分からわざわざ言ったりもしないしね。東日本大震災のときに改めて感じたのは、僕が生き延びたんじゃなくて、周りの人がお母さんを助けて僕を生かしてくれたんだなってこと。でも、ニュースを見たり学校で学んだりするより、お母さんのボランティア活動に関わる身近な人たちから実感することのほうがリアルですね。
子育てが終わりますから、まずは少しでも若いうちに、神戸以外の「外」を見たいと思っています。東北だけじゃなく、海外にも行きたい。これから先ずっと、大好きなこのまちから離れずに生きていくと思うので、今のうちにね。港があって、昔からいろんなモノが入ってきて、それを受け入れてきたまちが、神戸。教育・文化も国際的だし、だからこそ私も外でのさまざまな経験を通して改めてこのまちを見直して、この大変な20年を乗り越えてきた神戸を、もっともっと、好きになりたいなって思っています。