二十歳

夢のある話

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ハタチを機に、語り部となるプロジェクトを立ち上げた、震災の記憶のバトンランナー。迫田和仁さん・真由美さん

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生後5ヵ月の和仁さんが、家族を救った!?

阪神・淡路大震災当時、生後5ヵ月の和仁さんは、父、母、三歳の兄とともに阪神電車「深江」駅のそばに暮らしていました。母の真由美さんは、その日の朝のことをまざまざと覚えています。
ちょうど5時半くらいに、この子が泣き出して、朝早い時間にも関わらず、家族全員が目覚めていたんです。お腹が空いて泣いているようだったので、わたしは台所でミルクの用意をし、主人は長男のおねしょの世話をしてくれていました。そこに地震が起きて、とっさのことに訳もわからず、この子を中心に全員で覆いかぶさり、さらに布団をかぶって揺れが収まるまで4人でひとつになっていました。

_OSH9066「震災当日の朝、生後5ヵ月の彼が家族みんなを起こしてくれたんです」と語る、迫田真由美さん

ブラウン管のテレビはあらぬ方向を向いているし、タンスの上のあらゆるものがすっかり落ちてしまって、一瞬にして足の踏み場もなくなった我が家で、「何が起こったのか、ちっともわからなかった」という真由美さん。「とにかく屋根のあるところにいるのが怖くて」、近くの小学校の校庭に避難。乳飲み子を抱えた人生始めての野宿で、その日をしのぎます。
長男は3歳になっていたので、記憶があるようです。しばらくは、屋根のあるところで寝るのをずいぶん怖がりましたしね。でも、誰も怪我せずにいられたのは、きっとみんなが起きていたからだと思うんです。家族で震災の話するたびに、「あのときカズが家族を起こしてくれへんかったら、誰かが怪我してたかもしれへん」「カズは、家族の救世主やな」と言ってるんです。

_OSH9183震災2日前、95年1月15日の日付の入った家族写真

_OSH9191和仁さんの育児ノートは、1月17日を境に、震災の記録に変わってしまっている。「生々しくて、初めて読んだときは僕もずいぶん衝撃を受けました」

震災復興とともに育ってきたハタチの僕ら

けれど、当の和仁さんには、もちろんその日の記憶はありません。記憶を遡ってもらうと、震災のことを認識したのはたぶん小学校高学年くらいじゃないかな、と言います。
教科書にも載っていたけど、小学校、中学校のときは、1月17日が近づくと、なにかしら震災にまつわる授業がありました。家族のひとに話を聞いてきなさい、とか。小学校の頃は、1月17日には必ず隣の空き地に集まってみんなで黙祷したり、避難訓練をしたのを覚えています。

そんな彼が「震災」を肌で実感したのは、東灘高校2年生の夏休み。敬愛する野球部の監督の号令で、部員たちとともに、宮城県石巻市へ被災地支援に行ったときでした。
まだ避難生活されてる方がいらっしゃる小学校へ行き、泥かきをしました。震災からまだ5ヵ月、現地へ行く道すがらバスの窓から見る街はまだ、あちらこちらにがれきが残っていて、それを眺めながら「ああ、神戸もこんなんやったんかなぁ」って。それまで話に聞いていた景色を、初めて実感しました。いちばん印象的だったのは、野球部の代表として、現地の方とお話する機会のたびに、「そうか、神戸から来てくれたんやな、ありがとう」と、みなさんが口をそろえて「神戸」「神戸」と言ってくださることでした。

中学・高校時代の野球部経験で集団と個人の心理について興味をもった和仁さんは、今、大学の人文学部で心理学を学んでいます。昨春には、大学生のためのキャリア塾で出会った他大学の仲間たちと「阪神淡路大震災20年プロジェクト」を立ち上げました。1月には、関西の学生イベント「HATACHI」とコラボレートした募金活動、2月には学生ボランティア団体「Action」に同行して東北ボランティアに参加予定と、いよいよ具体的なアクションもスタートします。その目標は3つあるのだと彼は言います。
ひとつめは、「風化させない」ということ。僕らの世代が新たな聞き手となって語り部の減少をくいとめること。そして2つめは、「感謝を伝える」。フェイスブックを始めとするSNSで情報を伝播するなど、復興とともに育ったハタチのぼくらが感謝のメッセージを伝えたい、ということ。そして、どうしても叶えたいと思っているのは、20年の節目を迎える1月17日を目標に、オリジナルの「ホイッスル」を無料配布することなんです。

プロジェクトの仲間が「人と防災未来センター」に行って、語り部の方から教えてもらった「災害時に必要なもの」は、「水」「非常食」「靴下」「ホイッスル」。「靴下」は、逃げるときに瓦礫や割れたガラスで怪我をしないためだと聞いてすぐに納得できた彼らにとって、いちばん意外だったのは「ホイッスル」でした。
がれきの下敷きになった人が助けを呼ぶために、必要なんですよ。災害にあった直後、怪我をしていても大きな声で助けを求める人はたくさんいる。でも、その声が、救助や報道のヘリコプターの音にかき消されることが多いと聞いて、ショックを受けたんです。人を助けるため、より正確な情報を伝えるための行為が、命の声をかき消しているなんて…。それで、僕たちは、ヘリの音の中でも聞き分けられるホイッスルを、より多くの人の手に届けたいと考えたんです。大学生の力だけでは難しいかもしれませんが、神戸市職員のみなさんや、キャリア塾の講師である起業家の方などに相談しながら、実現に向けて今、3人の仲間と一緒に必死でもがいています。

_OSH9134仲間と取組み始めた新しいプロジェクトについて語る和仁さん

_OSH9151たくさんの先輩から教わった、さまざまな人生観を綴ったノート

そんなことを考えてたなんて、全然知らなかったわ…と、隣で思わず驚きの声をあげた真由美さん。毎日の暮らしの中ではめったに見せることのない、立派に成長した息子の知らざる一面を垣間見て、安堵の色も浮かんでいたし、「ほんまに、この子は周りの人に恵まれていると思います」とやさしく笑う目元は、ほんの少しうるんでいるようにも思えました。その声に動じず、和仁さんはこう続けます。
まだ、社会に出て何になりたいかは決まっていないけど、大人になることは、純粋に楽しみです。そのために、学生のうちにやるべきことを、相当真剣に考えていますし。中学のときのクラブチームのコーチ、高校の野球部の監督、大学に入ってから出会ったたくさんの先輩、そして、兄。これまで出会ってきた人、尊敬する人は、みんな自分のなかに何か信念をもっていて、「軸」がしっかりしている。そこは絶対に見習いたい。それから、僕がそうしてもらったように、若い人の話をよく聞いて、決して偉そうににせず、人生を教えてあげられる、そんな大人になりたいです。

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sakoda和仁さんからお母さんへのメッセージ

(写真/大島拓也 取材・文/高橋マキ)

迫田和仁

平成6年8月、神戸市生まれ。生後5ヵ月で東灘区にて阪神・淡路大震災被災。東灘高校卒業後、神戸学院大学に在学中。RE-Kobe〜阪神淡路大震災20年プロジェクト〜メンバー。

 

迫田真由美

昭和42年生まれ、3児の母。阪神淡路大震災では、3歳と0歳の子どもを抱えて被災。震災時は専業主婦、現在は須磨区で保育士として勤務。

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