ためになる話
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大学入試センター試験が1月14、15日で、16日に高校に行って、みんなで自己採点したんですよ。その後、仲の良かった同級生と一緒に三宮のカラオケボックスに行きました。それまでずっと勉強ばかりしていましたから、息抜きが必要だったんです。家に帰ってきて、次の日から二次試験対策の授業が予定されていましたので、ちょっとだけ赤本を開いて早めに寝ました。当時、両親と弟とJR立花駅の南側の7階建マンションの5階に住んでいました。
眠りが浅かったのか、震災がくるまえに「ゴーッ」という音が聞こえたのを覚えています。その後、ドンッと下からつきあげるような響きがあって、「うわっ」と思ったら、グラグラグラって横揺れが起きた。経験したことのない揺れでしたので、最初は大型トラックがマンションに突っ込んできたんだと思いました。途中で地震だとわかったんですが、どうしたらいいのかわからず、押し入れの扉が反動で開いて中から参考書がなだれ落ちてきたので、その空いた空間に頭を突っ込んでいました。
震災の当日か翌日、同じ尼崎市内に住んでいて、被害があまりひどくなかった地域のお客さんが、車で迎えにきてくれてお風呂に入れてくれましたね。車で移動中、木造住宅が多いところはほとんど全壊していたり、道路もボコボコしていていたりして。車のラジオを聞いて、少しずつ状況がわかってきて、ただただびっくりしていました。その後、商店街の人たちがご飯の差し入れをしてくれたりと、みんなで助け合っていました。
灘高がある東灘区は被災のひどい場所だったんです。なんとか高校の建物本体はもったので、最初はご遺体の安置所、その後は避難所になっていた。とてもじゃないけど、学校で勉強ができる状態ではなかった。3年生は震災後、授業はありませんでした。
1週間ほどして、担任の先生から大学受験のための調査書を渡したいから新大阪まで出てきなさいと電話がかかってきました。震災直後は電車は止まっていましたが、そのときは僕の実家の最寄り駅である立花駅から大阪方面は動きはじめていたんです。
そのとき、「こういうときこそ、ちゃんと勉強するんや」と先生にいわれました。最初は何をいっているんだろうと思いました。でもね、そのときの先生たちは僕たちのために、ぐちゃぐちゃになった職員室のなかから調査書を探し出して、電気があるところでプリントアウトしたりコピーしたりして作成していたんですよね。感謝してもしきれない。その後の卒業式でも、「カタチあるものは壊れるけど、人が学んだことや伝えたことは壊れない」といろんな先生方が言葉を代えておっしゃっていた。
「そうか、今、自分ができることは勉強なんだな」って、その言葉がずっと心に残っていました。
「教える」ということが楽しくて仕方がありませんでした。大学の授業よりも夢中になりましたね。そのままバイト先の学習塾に就職して4年間、勤務しました。その後、関西に戻り、ジェンダー史に興味をもち、その専門である小山静子先生のいる、京都大学の修士課程に進みました。
震災や福島の原発のニュースを見ているんですが、そこから考えることに集中できなかった。本来なら震災後の3月、もしくはGWに被災地に駆けつけることもできた。実際、高校の行事が多い時期ではあり、時間を作るのが難しかったのは事実ですが、でも頭のどこかで、「行かねばならない」という意識があるんです。何ができるかわかりませんでしたけどね。
同年の8月に休みを取り、高校の同僚の先生と岩手県釜石に向かいました。被災地の想像を絶する状況を見て、なぜ自分はもっと早くこなかったのだろうと後悔しました。地震と津波の徹底的な違いは、地震はそのまま壊れたものがその場にあるけれども、津波はすべてさらっていってしまう。とにかく被災している地域の規模が膨大で、いいようもないショックを受けました。
今まで福島や相馬はニュースで聞くところでした。交流することで「あの人がいる町」に変わったんです。それが僕にとっても生徒にとっても大きかった。その後、気仙沼とも縁ができ、毎年、夏休み、冬休み、春休みに気仙沼と相馬に生徒と共に訪れました。生徒たちの目で被災地の現状を見て、いろんな人の話を聞くことで得ることは多い。
また、福島にはたくさんかっこいい大人たちが集まっている。それは福島の高校の先生のような地元の人から、外から来ている人たちなどさまざまです。たとえば前述の坪倉くんは、生徒からすると灘高の大先輩で、東京大学理科III類から医学部にいったお医者さんで、そのままでも十分な肩書きなのに、南相馬に通って支援をしている。
僕は坪倉くんに「ただでさえ忙しいのにすごいね」といった時に、彼は「こういう時のために勉強してきましたからね」と答えたんです。「かっこいいなぁ!」って思いました。そういうことがすごく大事で、生徒たちは、自分たちが勉強しているのはこういう時のためかって、あるいは自分が将来こういう大人になりたいと思うと思うんですね。
福島の子どもたちは、ほかの地域の子どもたちと大きく変わらない部分も多いですが、まっすぐで、前向きで、地域をよくしようといろんな活動をしている子たちが多いんです。実際、一つ間違ったら、原発事故の後、大人を信じられなくなっていてもおかしくなかったのでは、とも僕は思うんです。それだけのことを僕たち大人はしましたから。でも、「医者になりたい」「先生になりたい」という子どもたちが多いのは、震災の後に、先生や親御さん、お医者さん、町の人、外からきたいろんな大人に助けてもらったからだと思います。自分自身を含め福島以外の大人は、福島の大人たちに感謝しなくてはいけない、と感じました。
これからの福島は雇用創出が計画されていますが、雇用があったとしても、そこに教育環境が整っていなかったら家族では越してこないでしょう。ファミリーに越してきたいと思わせるために、教育で自慢できる県にしなくちゃいけない。
また、これは大きな話になりますけれど、今の日本の学校教育はこれまでのやり方だと限界がきている。中高生の学校外の勉強時間はものすごく減っています。30年前から比べると、3分の2から約半分です。
理由の1つは少子化ですね。そんなにがんばらなくても大学に行けます。ではなぜ30年前、そんなに勉強をしたのかというと、当時はいい大学に行ったらいい会社に就職できて、いい暮らしができるという神話があったからです。なんで勉強するのかっていったら「あなたのためなの」と育てられる。
でも今の高校生って生まれてからずっと不況で、右肩上がりの日本を一度も経験していない。その子たちに30年前の神話は通用しないんです。だっていい会社にリストラもあるし、倒産することだってある。就職活動もたいへんで、東京大学に入っても就職活動でひーひーいっています。
そこで原点にもどる。なぜ、勉強をするのか。人を幸せにするためです。福島の子どもたちは自分が多くの人に支えられていることを知っていて、いつか自分も誰かを支える立場になりたいと思っている。誰かの力になりたいんだったら、力をつけなきゃいけない。そういう学びのカタチは日本全国で必要とされている。これまでの勉強とは違って、新たな学びの場が必要で、それを福島からつくっていきたい。
たしかに今の福島には課題がたくさんあります。けれど、福島の高校生の多くは、課題があるから人は学ぶし、課題があるから人は育つのだと考えていて、すごく前向きです。「誰かの役にたちたい」という主体的な学びにすごく熱心です。福島は主体的な学びを熱心に応援する県だとアピールできれば、福島で育ったことを子どもたちは誇りに思うでしょうし、福島に住みたいと思う人もどんどん増えていくのではないでしょうか。
「福島の子どもたちを元気にしてあげなくては」ではなく、「福島の高校生が日本を元気にするんです」と前川さんはいいます。「誰かを幸せにするため、笑顔にするために学ぶ」という新しい学びのあり方を福島から日本へ、世界へ発信する日がくることが大きな目標です。