ためになる話
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テレビで震災を知りました。ですが、震災が起こったからといって、すぐに取材や何か行動を起こそうという気は起こりませんでした。ただただ、テレビから流れる被災状況を観ていました。その夜、インフルエンザに感染して動くことができず、横になりずっとテレビを観ていました。そこには、幅広い世代のさまざまな人たちがいろんな所で支援活動をしている様子が映し出されていました。
今でこそ被災者支援のためのボランティアが社会に根付きましたが、当時は福祉のボランティアや震災ボランティアは、一部の特別な人がやるものだろうと思っていました。ですが、自身が被災者の支援へ行くと考えた時に結局、自己納得だろうなと思いました。では、どこの被災地に行くのかと考えました。
実は、震災の発生前は、神戸のことはほとんど知りませんでした。テレビから流れる映像を観ながら、最も大きな被害を受けた地域の一つである長田区へ行くことを考えていました。
テレビレポーターが被災者親子へインタビューを行っていましたが、その親子は答える様子がありませんでした。当時、神戸の長田に住むベトナム人のほとんどは難民として定住した人たちで、その多くが日本語が分からないために孤立した状態にありました。その瞬間にピキーンときて、この困っているベトナム人の皆さんのところへお手伝い行こうと決心しました。
その決心の根本は、自分の生き方や、なぜ新聞記者を目指したのか、なぜフリーランスになったのか、ということと重なっています。社会の中には困難な状況におかれている人たちがたくさんいます。その人たちにはなれないけども、その人たちと共に歩んでいくことはできると考えていました。ですが記者時代はできなかったので、フリーランスになって実現したいと思っていました。
フリーランスになって取材をしようと思っていた場所は、当時紛争していたユーゴスラビア。もともとは多様な民族が地域社会の中で一緒に暮らしていましたが、国が崩壊したことを発端に、隣人同士が民族や宗教の違いで殺し合いが起こってしまいました。そのことに強い違和感を覚えました。そういうことにこそ、光を当てたいと思っていました。
被災者支援のため2月3日に長田区の南駒栄公園へ訪れました。この公園は公的な避難場所ではないため、救援物資が配布されるルートからも外れている状況でした。
この公園で発生するトラブルの原因は、日本人、在日韓国・朝鮮人、ベトナム人のそれぞれお互いに溝があったことです。被災するまでお互い、コミュニケーションをとったこともほとんどなく、偏見みたいなものも少なからずそれぞれにあったと思います。さらに溝を深めたのは、ベトナム人被災者の多くが日本語で話している内容が分からない、という言葉の壁の存在でした。
また、この避難所はベトナム人が多いということで、有名になりテレビ取材がよく訪れていました。取材はベトナム人だけにスポットが当てられました。そのため、ベトナム人にだけ、多くの救援物資が送られてきました。当然ベトナム人が物資を受け取るのですが、他の被災者の日本人や在日韓国・朝鮮の人たちは「これからみんなで一緒にやっていくと言っていたのに何だ」と、物資を巡ってトラブルが発生しました。こんなことが毎日起こっていました。
そこでトラブルの対策として、日本人と在日韓国・朝鮮人のグループとベトナム人のグループそれぞれの住民の方に代表を選んでもらい、ボランティアの私たちと一緒に少人数でじっくりと話し合いました。そして、この避難所をどうやって運営していくのかをしっかりと検討し実行しました。他には救援物資のルートに加えてもらうよう役所に働きかけるといった業務も行っていました。
トラブルがあるとはいえ被災者同士は、毎日顔を突き合わせているうちに、○○人としてではなく、それぞれの顔が見えるようになってきました。3月ごろになると、お互いを個人として認識するようになりました。トラブルが絶えない避難所でしたが、その頃には、同じ長田に住んで同じ避難所にいるのに、言い争いはしたくない、という同じ言葉を何人もから聞きました。その想いの中に希望を感じたのです。
情報交換で得たのは、ベトナム人被災者にとって一番大きな問題は、やはり言葉の壁の存在ということでした。震災後を生き抜くには情報を得ることがもっとも重要です。どこで水や食料が手に入るか、義援金や仮設住宅はどうやって申し込めばよいか。ですが、ベトナム人も話すことはできても読み書きのできない方が多かったです。それはまるで、世の中に霧がかかっているかのようでした。
そこで大阪外大の学生さんたちやベトナムからの留学生たちにボランティアで通訳をしてもらうことで、ベトナム人と日本人の言葉の壁を取り払うようにしました。おかげで徐々にトラブルは減少していき、覆っていた霧が晴れていくかのようでした。そんな活動をしている時に長田の在日韓国人がある提案をしてくれました。それは「ベトナム語で被災者の必要な情報をラジオ放送で伝えたら良い」というアドバイスでした。
実は、震災から2週間後の1月30日から、JR新長田駅近くの民団西神戸支部内の韓国学園において、在日韓国人被災者に向けた日本語と韓国語の多言語ラジオ「FMヨボセヨ」の放送が始まっていました。このラジオ放送は、在日韓国人被災者の安否情報、そして救援物資情報、さらに朝鮮半島の民謡も流していました。被災者となった在日韓国人一世の方は、故郷の音楽や言葉を聞くことで、震災による心的ダメージが軽減され、心の癒しとなっているということでした。
このラジオ放送はベトナム人に対して必要な情報を発信し、被災者たちの生活を励ますことを目的としました。ベトナム語だけではなく、タガログ語や英語、スペイン語、日本語などの言語でも放送しました。この活動をきっかけに多国籍の人たちとのつながりができました。また、ラジオ局設立を機に私は、被災支援の活動拠点を震災救援基地であったカトリック鷹取教会に移しました。
社会の中にあったけれども見えていなかったもの。それを覆い隠していたものが地震で壊れて、問題が浮き彫りになったと思いました。自分自身も縁があってここにいるのだから、まだしばらくはここにいようかなと考えるようになりました。
長田を含めた神戸は国際都市とよばれていますが、震災によって多くの課題があることを認識しました。経済や観光という意味では国際都市といえますが、人の想いだとか暮らしの部分では、とても国際都市と言えるまちにはなっていなかったのだと実感しました。でも支援活動を通じて見えてきたのは、震災で大きな被害を受けても、まちの人たちが歯をくいしばって困難を乗り越えようとしている姿でした。それを見て、神戸はいつか必ず困難を乗り越えられる、という期待を持てました。
ラジオ局も被災者の支援活動だけで終わらせるのではなく、10年後も20年後も立場の違ういろんな人たちが自分たちの活動内容や想いを発信できる場所として、また今後の課題を乗り越えるためのツールになればいいと思いました。長田には国籍や民族、宗教の違いだけでなく、いろんな人たちが同じ地域で暮らしています。その人たちの声が当たり前のように、まちのラジオから届き、誰もが「自分らしく暮らせる地域」となることを考えるようになりました。
そのため震災の翌年に国から認可を受け、正式なコミュニティ放送局になりました。ラジオ放送を一つのきっかけにして、長田が多文化共生のまちになることを期待しています。国籍や民族など、さまざまな違いを超えた「自分らしく暮らせる地域」になるようなまちづくりに取り組んでいます。
自身が支援活動を通じて結婚する相手と出会うなんて夢にも思っていませんでした。もちろん妻との出会い以外にも、さまざまな人たちとの出会いの連続でした。そのおかげで今の自分があると思います。特に、周辺においやられがちな人たちと生活や仕事、活動をしたことで、それまで自分が知らなかった日本社会が見えてきました。震災から20年間、地域の人たちと一緒にまちづくりに参加できたことでで、それまでとは異なる視点で社会を見ることができるようになり、自分の中がさらに豊かになった気がします。
時には、活動を共にするベトナム人が日本社会から排除される、という問題点も見ました。ずいぶん前に、地域の15歳未満の子どものいる各世帯に2万円分の地域振興券が配られました。ですが、難民として渡って来たベトナム人の世帯には配られませんでした。「日本で生まれて日本語しか話せないのに、なんで私はもらえないの」とベトナム人の子どもが話しているのを聞きました。これは、子どもの世界に大人が分断を作っている、という大変な問題でした。
そこで、大人が差別をつくっているという社会の問題に対して集会を開催したり新聞に書いてもらったり、といった活動も行いました。このような問題は、排除される人たちだけでなく、同じ地域の日本人たちも含めて声をあげなければ、日本社会は変わりません。それが多文化社会の力になっていくのだと思います。多文化共生の社会はまだまだですが、こういった活動を積み上げていくことが大切です。
多文化の力を育てていくために、たかとりコミュニティセンター近くの公園で毎年行っている祭りで多国籍料理の屋台を仲間の外国人たちと出店しました。初めのうちは、お客さんたちはおっかなびっくりでしたが、次第に受け入れられるようになり「食べてみるとおいしいやん」と喜ばれています。他の文化・民族との接点を積み重ねるように出会いや、つながりの場を作っていく。そうするとお互い、一人ずつの顔が見えてきて、知人同士となります。こうして多文化共生のまちに育っていきます。
たかとりコミュニティセンターのリーフレットには「ゆるゆる多文化いとをかし」と書かれています。「ここに集う私たちは、不思議な“ゆるさ”を感じています。この“ゆるさ”はなんだろう。ちがう言葉がきこえ、子どもが遊び、仕事に取り組む人がいて、語り合う人たちが集まっている…。そんな人たちが織りなす“ゆるさ”なのかもしれません。“ゆるい”からつながれる、“ちがう”のがおもしろい。」としています。そういう“ゆるさ”を持って、まちづくりに取り組んでいます。
ある時、講義の後に二人の体格の大きな男子大学生がやってきて、「先生、僕たち、ネット右翼なんです」と言われました。少しかまえていると、「こんな歴史があるなんて知りませんでした。それを知らずに在日韓国・朝鮮人や中国人の悪口をネットで流していました。ホント恥ずかしいです。もっともっと教えてください」と言ったんです。それなら一度、たかとりコミュニティセンターに来て、いろいろな人たちと一緒に活動をしてみなさいと言いました。他の文化や国籍の違う人々と触れ合うことで、ものの見方は変わり、視野が広がります。
ここ長田では、今は他の国籍の方との接点が多く、友だちになったり、一緒に悩んだり、多文化に対する寛容度は、震災から二十年を経て高まっていると思います。私たちができることは大きなものではなく、網の目のような活動です。そして網の目のような活動が少しずつさまざまな地域へ広がり根付いていくことが望ましいです。また日本社会だけでなく国境を超えて繋がっていくことも大切です。
私たちFMわぃわぃは、多言語で収録した災害関連情報の放送素材を持っていく、という支援活動から始めました。すでに多言語で震災情報の放送を始めているラジオ局もいくつかありましたが、言語の数が不足している災害ラジオ局や、多言語放送のアイデアを持っていない災害ラジオ局もありました。でも、その必要性を伝えると、すぐに放送プログラムの中に取り入れてくれました。阪神・淡路大震災の時とは違い、震災直後から多言語放送を行なうラジオ局は確実に生まれ、自身たちの活動をやっていて良かったと実感しました。
阪神・淡路大震災で長田や神戸の人たちが得たことは、多文化が社会の力になっていく、ということだと思います。もう1つは、自分たちの地域のことは行政任せにするのではなく、自分たちが意思決定をして、自分たちで良くしていく、ということです。一人一人の市民の力がまちを作っていくのです。
市民社会といいますが、市民という言葉には、国籍や文化、立場の違いのある多様な人たちが含まれているのです。長田の地域の人たちや商店街の人たち、役所の人たち、多くの市民が元気です。その人たちが重なり合いながらまちづくりをしていく。もちろん役所の人も地域の住民で、それぞれがそれぞれの立場の中で働いて活動して、それが横に繋がっていくことが大切なのだと思います。多文化が広く受け入れられ共生できると信じています。