造形作家

思わず身を乗り出す話

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「ドングリをきっかけに、子どもたちの心に木を植えたい」神戸のまちに森をつくっていく。造形作家 マスダマキコさん

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くずれていく様を見て、意識が変わった

1982年から、造形作家として活躍されているマスダマキコさんは、阪神・淡路大震災をきっかけに「ドングリ銀行神戸」を設立。現在も、子どもたちと一緒に、まちに緑を増やしていく活動を続けています。「ドングリ銀行神戸」とは、集めたドングリと苗木を交換する、緑の交換システム。拾ったドングリを、預金ならぬ「預ドングリ」してもらい、本物そっくりの通帳に記録して、一定数がたまったら苗木と交換する…遊びながら森を育んでいく取り組みです。

阪神・淡路大震災の経験をきっかけに、造形作家としての意識や活動に大きな変化があった、というマスダさん。このことが「ドングリ銀行神戸」を設立するきっかけになりました。
目の前のものがくずれていく様子を目の当たりにして、形あるものをつくることから、形のないものをつくりたいなと意識が変わっていったんです。「ドングリ銀行」は私にとって、造形活動の延長線上にあるもの。自然の力や強さみたいなものを感じたことに加え、これから親になるんだという今までに経験したことのない実感もあり、価値観ががらっと変わりました。

通帳まるで本物のような「ドングリ銀行神戸」の通帳


おなかの子が助けてくれた

阪神・淡路大震災発生当時は、神戸市須磨区に住んでいたマスダさん。家屋は全壊でしたが、奇跡的にかすり傷程度ですんだといいます。そのころ、マスダさんのおなかには2カ月の生命が宿っていました。
明るくなってから自分の家を見て、ぞっとしました。その日は明け方まで1階で本を読んでいて、部屋を離れた直後に大きな揺れが起きたんです。もし、あのまま部屋で本を読んでいたら、助かっていなかったかもしれません。「おなかの子が助けてくれたんだね」と、みんなが励ましてくれました。

震災後は兵庫県の加古川市や三木市へ移り住み、震災から1年半ほどたったころ、ようやく神戸へもどります。当時は創作活動をしながら、神戸市内の中学校や大阪の専門学校で講師を務めていました。震災が起きて、しばらくは出勤するだけでもひと苦労だったのだとか。
日ごとにおなかが大きくなっていく中での出勤はたいへんで…。毎朝、新聞に掲載されていた「今日の交通情報」を確認してから出勤していました。船を使って通勤したり、とにかくたくさん歩きましたね。あのころは、現在のように復興するなんて想像できませんでした。そんな中、それまではほとんどなかった、ご近所づきあいが当たり前になったのはすばらしかった。知らない人同士でも力を合わせることが、ごく普通のことだったんです。

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「どんぐり銀行」との出会い

不自由な生活を送る中、1995年3月に「どんぐり銀行」と出会います。「どんぐり銀行」というのは「県民が参加できる森づくり」をめざして、香川県ではじまった取り組みでした。
テレビで紹介されているのを見て、「これだ!」とひらめいたんです。震災直後、家はくずれているのに庭木が残っているような風景をたくさん見ました。春になると、がれきが残るまちの中に緑が芽吹いて、なんとなくほっとしたんです。けれど、復興作業が進むにつれて、無事だった木々が伐採されてしまい、家が建てられ、道路がつくられていきました。そんなまちの様子を見ているうちに、いたたまれない気持ちになったんです。

とにかく行動しなければ、と考えたマスダさんは、職場の近くにあった神戸市東灘区の小学校に話をもちかけます。そこは特に被害が甚大だった地域で、学校のグラウンドには避難用のテントが並んでいました。
木を育てるには時間がかかるし、まちの人や子どもたちを巻き込んで活動していくには、早く進めたほうがいいという焦りがありました。けれど、学校側はそれどころではない状況で。さらにいろいろ考えて、香川県の担当者に問い合わせをしてみると、とても協力的で…応援してくださることになったんです。

2014窓口3「ドングリ銀行神戸」の窓口、集めたドングリと苗木を交換


素人がはじめた、まちに森をつくる活動

阪神・淡路大震災発生から2カ月後の1995年5月、香川県の「どんぐりボランティアネットワーク」の協力を得て、仲間たちと共にボランティア団体「ドングリネット神戸」を設立します。実はマスダさん、緑についてはまったくの素人だったのだとか。
ボランティアの経験もありませんでしたし、ドングリのこともほとんど何も知らない状態からのスタートでした。ドングリを種として使うなんてこと、それまではありませんでしたしね。

参加してくれる人がいるのかと心配していましたが、マスダさんの心配をよそに、全国各地からたくさんのドングリが集まってきました。
活動をはじめてから気づいたんですが、ドングリって、子どものころから拾って集めて遊んできたせいか、だれにとってもなじみのあるものなんですよね。活動を継続していくには資金が必要だったので、「団栗(どんぐり)応援団」という資金面でサポートしていただくシステムをつくりました。使う目的がはっきりしているからという理由で、兵庫県外の多くの方々が応援してくださいましたね。

066思いがけなく種類がたくさんあるのも、ドングリの魅力

さらに、最強のパートナーとの出会いもありました。
「ドングリネット神戸」副代表の中西收は、植物生態学を研究していて、とっても緑にくわしいんです。初対面ですぐに意気投合、一緒に活動することになりました。ドングリについてもそれはそれはくわしくて、たくさんの種類がある中で、葉っぱやドングリの帽子の形などからすぐに種類を見分けられるんです。私はたのしい企画を提案する「言いだしっぺ」で、彼は緑の専門家である「ドングリ博士」。いいコンビだなぁと思います。

環境授業ドングリ博士こと、中西收さんの環境授業


出会うべくして出会った人たちと共に

ドングリは、すべてが種として使えるわけではありません。はじめに種子として使えるものを選び、落葉樹や常緑樹とたくさんの種類に仕分けをしていく作業を経て、育てることがはじまるのです。
知識もなく、育てるすべも知らなかったので、いろんな失敗を繰り返してきました。けれど、みんなからせっかくもらったドングリをむだにするわけにはいかないと、とにかく必死。手さぐりの活動をする中で、いろんな年齢、いろんな職業の方々と出会うべくして出会い、実現できたことがたくさんありました。

「実現しそうにないことでも、まずはじめてみること」「やっている自分たちが楽しくないことはやらないこと」など…最初のころに決めたモットーを、マスダさんたちは今でも大切に守り続けているのだとか。
最終的な目標は「神戸のまちに森をつくる」こと。だから、個人と個人をつなぐことがすっごく重要なんです。ご家庭の庭にできるだけ苗を植えてもらって、緑を増やしてくださいねとお願いしました。

活動を続けていくうちに、ドングリだけでなく、他の木も育てたいという声があがります。参加者の望みをかなえたいと考えたマスダさんは、いろんな苗木を育てて提供してもらう「プラントマスター」という仕組みを考案。ラジオなどで協力を呼びかけます。
ありがたいことに、希望者が多くって。苗木業者の方が、市場に出せない苗木を提供してくださることになりました。また、ドングリ以外の苗木はほぼ100%といってもいいくらい、岐阜県の亀崎利治さんという方が育ててくださったものなんです。「ゴールドプラントマスター」と呼べるほど熱心に苗木を育てて、神戸まではるばる運んでくださいました。

春の窓口プラントマスターの協力によって集まった、数々の苗木


遊んでいて、気がついたら緑が増えていた!

「ドングリ銀行神戸」の活動をスタートしてから2年ほど経ったころ、今度は「育てる」ことに重点を置いた活動へと幅を広げていきます。
六甲山系の西の端にある「おらが山」という、緑の少ない山を活動拠点に、「ドングリピクニック」などのイベントをはじめました。ドングリを拾って、遊んで、育てて、植える、ということをひとつのサイクルにして、緑を増やしていったんです。その活動は7年半続いて、今では木々がしげっているんですよ。

また、せっかく集まったドングリをむだにしてはいけないと、種子としては使えないドングリを活用した遊びやイベントを展開していきます。
みんなから集めたドングリで遊ぶなんて不謹慎かなぁと思ったんですが、あまり堅苦しく考えないで楽しもう!と考えるようにしたんです。コマをつくって遊んだり、食べられるものはドングリごはんにして食べたり、草刈りや土づくりも一緒にやりました。子どもたちは、嬉々として参加してくれましたね。

わかりやすくて楽しい活動だからこそ、注目が集まり、参加者も多かったにちがいありません。活動そのものがすごく楽しい、と語るマスダさん。
緑を増やすことが目的なので、1日中ドングリで遊んだら、最後に必ず「1個だけでもドングリを植える」ことを大事にしています。その場で植えてもいいし、自宅で植えてもらってもいい。ドングリの実はよく知られていますが、発芽する様子を目にする機会はほとんどありませんよね。それだけに発芽の瞬間がとても感動的なので、みんなに見てほしいなぁと思うんです。

masudasan_ドングリ芽生えなかなか見る機会のない、発芽して間もないドングリ

また、子どもたちが、自分たちで植えて育てたという実感を持つことも重要だ、と熱い言葉が続きます。
何度も参加してくれている子が「ぼくが育てた山やねんで!」と言ってくれた時は、とてもうれしかった。街路樹など、まち中の木々にはなかなか関心をもてないかもしれないけれど、自分たちが育てているんだと思うだけで、自然に対する意識は変えられると思うんです。楽しく遊んでいるうちに、気がついたら緑が増えていた!という流れが、理想的ですよね。

ドングリツアー神戸市中央区の再度山(ふたたびさん)でおこなわれた、ドングリ観察ツアー


みんなで育てた、みなとのもりの森

阪神・淡路大震災の復興プロジェクトとして、2010年にオープンした神戸市中央区の「みなとのもり公園」。ここにも、「ドングリ銀行神戸」の活動によって集まった苗木が育っています。
開園4年前の2006年から、「阪神・淡路大震災1.17のつどい」に来られた方々に、育てていただきたい旨をお伝えしながらドングリをお配りしていました。そして、2008年3月に初めての植樹会を開催したんです。あんまり集まらないだろうな…と思っていたところ、信じられないくらい大勢の方々がご家庭で育てた苗木を持って来てくださったんです。

みなとのもり集合写真まだ緑のないみなとのもり公園に、たくさんの方々が苗木を持って集合。森づくりが始まった、記念すべき日

こうして、「みなとのもり公園」にも、ドングリの木やプラントマスターから分けてもらった苗木が植えられました。
開園当時は、まだ木が小さくて、森らしくなかったのですが…今では、ドングリの種子も実るようになりました。木陰ができて、間伐しなければならないほど大きく成長したので、本当にうれしくて。最初からできあがっている森よりは、みんなで森を育てていくところが「ドングリ銀行神戸」のいいところなんですよね。

みなとのもり14木々が大きく育ちすっかり森らしくなった、みなとのもり公園


活動20年目の、シビアな決断

大人も子どもも一緒に楽しみながら、まちに森をつくってきた「ドングリ銀行神戸」ですが、2015年に、いったん活動を終了するそうです。今後は、みなとのもり公園を拠点に、間伐会や森の手入れ、工作や観察会などをしながら、さらに森を育てていくことを計画中なのだとか。
苦渋の決断でしたが、活動も20年目になり、植えられる場所には植えて、あちこちで木々が育ってきたし、いい節目なのかなと。ドングリだけがどんどん集まっているのに、実際に植える場所がないというのは不誠実だ、とも思ったんです。

現在も、みなとのもり公園の運営会議のメンバーとして、毎月みんなで森の手入れをしています。この公園を活動拠点にすれば、「神戸のまちに、森をつくろう」というテーマを守り続けることができるんじゃないかなと。「ドングリ銀行」の仕組みそのものが魅力的なので、その冠がなくなることで普通の緑化活動になってしまわないよう、めずらしい種類のドングリを植えたり、新たなイベントの企画などをしているところです。ドングリから離れて、他の種類の木々を観察したり、何かをつくったりすることで、より自由に活動の範囲をひろげていけるのではないかと前向きに考えています。

063「ドングリネット神戸」の活動を伝える情報紙、手づくりのぬくもりがあふれている


子どもたちの心に木を植えたい

最近、神戸のまちに高層マンションが増え、港から山が見えなくなるんじゃないか、と心配しているというマスダさん。
自然との距離がこんなに近いまちはなかなかないから、神戸の財産だと思うんです。大切にするべきことをちゃんと意識して、神戸のまちらしさを残していきたいですよね。特に東灘区や灘区の方たちは、生活圏から六甲山が近いので、なじみのある裏山だという意識をお持ちなんです。だから「普通のこと」として、まちの緑や自然について考える機会が多いのかもしれません。

これまでは植樹という目に見える活動をしてきましたが、心の中では、子どもたちの心に木を植えたいなぁと願ってきました。人と森の共存が当たり前になり、「小さいころ、ドングリの木を植えたなぁ。ドングリで遊んだなぁ」といつか、少しでも思い出してくれるとうれしいですね。


(写真/森本奈津美 取材・文/二階堂薫、山森彩)

マスダマキコ

造形作家、「ドングリネット神戸」代表。1982年から造形作家として主に立体作品を発表。1995年、阪神・淡路大震災をきっかけに、緑の交換システム「ドングリ銀行神戸」を設立。神戸芸術工科大学の助手などを経て、現在は神戸を拠点にクリエイティブな活動を展開している。

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