地道な話
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たんなる奉仕活動ではない、利用者と担い手が対等で、息の長い活動につながる方法に惹かれました。住みなれたまちで気持ちよく暮らし続けるために、どういうサービスや仕組みをつくっていけばいいのかという問題意識を持っていたことも、活動をはじめた理由のひとつです。そして何より、私個人の人生を見つめた時に、自分の中に何かが蓄積されていき、一生続けられる仕事をしたかったんですね。「この仕事をしていてよかった!」と思えるような、天職との出会いを願っていたのかもしれません。
まだ、介護保険法が制定されていない時代でした。日々の暮らしのお手伝いをするということは、その方のプライバシーにも自ずと触れていくことになります。生活の根底を支える方法、サービスを利用してくださる方々との関係づくりなど、「神戸ライフ・ケアー協会」ではあらゆることを勉強させていただきました。
被害の大きかった東灘区に住んでいましたが、幸い、私の家は壁にひびが入るだけですみ、家族も全員無事でした。震災が発生した日の午後から、サービスの利用者や友人知人の安否確認をするために地域を走りまわりました。
震災後しばらくは、蛇口をひねっても水が出なくって。洗濯や食器洗い、トイレなどに使用する生活用水が圧倒的に不足していたため、「水くみ110番」という救援活動を開始しました。ご高齢者や障がいを持つ方々、妊婦さんたちを中心に水を届けていったんです。ご家庭のバスタブを水でいっぱいに満たしてさしあげることで、少しでも安心してほしいという一心でした。
当時、被災者と呼ばれる人々には2つの傾向がみられました。1つめは、「あれもして、これもして」と依存する姿勢。2つめは、「どうして、仮設住宅にばかりボランティアや応援物資が集中するの?」という不満です。その両方の声に、どう対応していくかが大きな課題でした。
民生委員さんが参加者を集め、私たちはドクターの健康講座などを企画しました。診察室にテーブルクロスを敷いて、お菓子を出して、残った時間は自由におしゃべりをするんです。次から次へと人が集まってきて…こんな風に医療と福祉の連携ができるんだ!と感動したことを覚えています。「ふれあいサロン」は、今でも続いているんですよ。
時には、あれもこれも「してもらう」という依存傾向が見受けられたので、自立をうながすことが先決でした。提供するサービスを少しずつ減らしながら、「あなたが地域に貢献できることは何ですか?」と問いかけていくようにしたところ、「運送の仕事をしていたから、移動や送迎を手伝える」「ものづくりが好きだから、みんなで使えるアトリエがあれば、だれかを元気にできるかもしれない」という風に、個人の得意とすることがポジティブな地域貢献活動へと変化していったんですよね。それから、皆さんの能力を引き出すための支援活動をはじめることにしました。
今度は、震災の記憶から立ち直りはじめた人や前向きになってきた人たちへの働きかけが必要になってきました。そこで、ひとりよがりの自立ではなく、お互いの弱点を補い、助け合いながら生きていく取り組みをはじめたのです。それが「CS神戸」を生むきっかけとなりました。
震災発生後、大半の方がまずおこなったのは家族の安否確認でした。次に隣近所を訪ねたり、お互いに声をかけ合ったんですよね。この一連の行動を、「第1次確認→家族」「第2次確認→近隣」「第3次確認→縁のある人」と整理しました。
この「第3次確認」が、人の命を救うことにつながる。こういうご縁、つながりを生み出す仕組みをつくって、日常的に広めていくことが人の命を救うんだ!安心・安全につながる道筋なのだと確信したんです。
130~150万人のボランティアが、被災地や被災者の手助けをしてくれました。それまで、日本では災害の復旧活動を担うのは主に警察、消防、自衛隊だけ。阪神・淡路大震災後は、若い学生たちが泥まみれになりながら救援活動に励み、大規模な助け合いが自然におこなわれるようになりました。
一般的なマナー教育から、ボランティアとは一体何なのか…など何度もミーティングを重ねて、お互いの理解を深める努力をしました。けれど、私の方も手いっぱいの状況で。ボランティアの皆さんとのミーティングや、ニーズと人材を適切にマッチングする時間の確保がむずかしい状況もありました。
「人を助けたい」という気持ちはとても大切ですが、やはり守るべきルールがあります。当時は、そういう意識が全体的に未熟でした。その頃の経験がいきて、今では「ボランティアコーディネーター」という役割が学問のひとつになっています。そして、ボランティア活動に来てくれていた学生が福祉の道に進むと聞いた時は、非常にうれしかったですね。
私たちの仕事は、市民の方がやりたいことをただ支援するのではなく、社会のニーズとマッチングしていくこと。仮設住宅で暮らしている、震災前までコーヒー屋さんを営んでおられた方が「ボランティアの人に、ありがとうと言い続けなければならないのがつらい」と言うので、「だったらあなたが、ありがとうと言ってもらえる立場になったらどうですか」とアドバイスしました。すると、仮設住宅内でコーヒーサロンを開店、見るからにいきいきとしはじめたんです。人は、役割があると輝きますよね。
地域の団体は、日常の細やかなことにまで目が行き届いています。だから、防犯や防災にまつわる活動ができる。専門性や技術などが必要な時はその分野に強いNPOが動くなど、地域の中で役割分担ができるといいですよね。私たちのような中間支援組織同士がもっと手を結んで、共通のテーマとして取り組んでいきたいなぁと思っています。
阪神・淡路大震災が起こった時には、多くの人が情報を交換し、自然に声をかけ合っていました。今ではすっかりそういう雰囲気が薄れてしまい、社会との接点を見つけられない人たちが多いように思います。彼らのプラスの面を発見し、社会とつなげていくことを続けていきたい。関係性を育むことで、お互いを気づかい、外国のようにフレンドリーに声をかけあえる地域を増やしていきたいと願っています。