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地道な話

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「関係性が、命を救う」社会や地域、人と人とをつないでいく。コミュニティ・サポートセンター神戸 中村順子さん

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「この仕事をしていてよかった」と思えることをしたかった

これまで30年以上に渡って、地域の中で支援を必要とするさまざまな方々によりそい、無数のネットワークを築き上げ、たくさんの仲間と共に歩んできた中村さん。支援活動にたずさわる前は子育てをしながら広告会社に勤務しており、時間的に余裕のない生活を送る中で「本当にこれでいいのだろうか」と悩んでいたそうです。

ある日、なにげなく手にした神戸の広報紙で「有償ボランティア」という言葉を発見。当時はボランティア活動があたりまえではなかった時代、サポートを必要とする方の生活援助をすることで少額の謝礼を得て、さらに組織を運営していくという「有償ボランティア」に興味をもった中村さんは、すぐにボランティア団体「神戸ライフ・ケアー協会」での活動を開始します。
たんなる奉仕活動ではない、利用者と担い手が対等で、息の長い活動につながる方法に惹かれました。住みなれたまちで気持ちよく暮らし続けるために、どういうサービスや仕組みをつくっていけばいいのかという問題意識を持っていたことも、活動をはじめた理由のひとつです。そして何より、私個人の人生を見つめた時に、自分の中に何かが蓄積されていき、一生続けられる仕事をしたかったんですね。「この仕事をしていてよかった!」と思えるような、天職との出会いを願っていたのかもしれません。

こうして「自分の仕事」に出会った中村さんは、それから十数年間、ご自宅で生活している高齢者や障がい者の調理や洗濯、おむつ交換などの生活支援を担当したり、ボランティアを適切にマッチングするコーディネーターを務めたり、組織経営に参加するなどコツコツと経験を積み上げていきます。
まだ、介護保険法が制定されていない時代でした。日々の暮らしのお手伝いをするということは、その方のプライバシーにも自ずと触れていくことになります。生活の根底を支える方法、サービスを利用してくださる方々との関係づくりなど、「神戸ライフ・ケアー協会」ではあらゆることを勉強させていただきました。

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あふれる行動力で「水くみ110番」をスタート

生活支援活動をはじめてから13年後の1995年、あの阪神・淡路大震災が起こります。
被害の大きかった東灘区に住んでいましたが、幸い、私の家は壁にひびが入るだけですみ、家族も全員無事でした。震災が発生した日の午後から、サービスの利用者や友人知人の安否確認をするために地域を走りまわりました。

しかし、所属していた団体はこれまでのような支援活動ができない状況でした。ならば自分で動こうと、中村さんは全国の仲間にはげまされ「東灘地域助け合いネットワーク」を設立。小さなテントに手づくりの段ボール看板を掲げて、中村さんの新しい活動がスタートしました。
震災後しばらくは、蛇口をひねっても水が出なくって。洗濯や食器洗い、トイレなどに使用する生活用水が圧倒的に不足していたため、「水くみ110番」という救援活動を開始しました。ご高齢者や障がいを持つ方々、妊婦さんたちを中心に水を届けていったんです。ご家庭のバスタブを水でいっぱいに満たしてさしあげることで、少しでも安心してほしいという一心でした。

時間の経過とともに、被災地で求められるニーズは変化していきます。「家の片づけをしてほしい」「通院を手伝ってほしい」といった要望が次々に舞い込むようになり、中村さんは「よろず110番」へと活動を広げていきます。すべての方の、どんな要望にも応えられるように体制を整えていったのだそうです。

スキャン 3お茶を飲んだり、おしゃべりしたりできる移動集会所「茶話やか(さわやか)テント」


いろんな人の力が融合して、医療と福祉が連携

阪神・淡路大震災が発生した1月から、避難所から仮設住宅へ多くの人が移り住んだ8月までの約7カ月間、神戸を中心とする被災地には、130万人もの復興支援ボランティアが全国から集まったといいます。
当時、被災者と呼ばれる人々には2つの傾向がみられました。1つめは、「あれもして、これもして」と依存する姿勢。2つめは、「どうして、仮設住宅にばかりボランティアや応援物資が集中するの?」という不満です。その両方の声に、どう対応していくかが大きな課題でした。

東灘区は、被災地の中でも家屋の倒壊率が特に高かった地域にあたります。ご自宅で生活している方々が安心して集える場所はないかと、東灘区医師会に所属しているドクターに相談したところ、「診察が午前中で終わるので、午後なら」と診療所の待合室を開放してもらえることに。さらには、東灘区にある20数カ所の診療所も全面的に協力してくださることとなり、地域の人々が集うことのできる「ふれあいサロン」が誕生します。
民生委員さんが参加者を集め、私たちはドクターの健康講座などを企画しました。診察室にテーブルクロスを敷いて、お菓子を出して、残った時間は自由におしゃべりをするんです。次から次へと人が集まってきて…こんな風に医療と福祉の連携ができるんだ!と感動したことを覚えています。「ふれあいサロン」は、今でも続いているんですよ。

スキャン1995年、東灘区内20数カ所のクリニックと提携して実施した、在宅高齢者支援活動「ふれあいサロン」


それぞれにそなわる能力を引き出して、活躍の場をつくっていく

一方、仮設住宅で暮らす方々に対しては、どんな働きかけをおこなったのでしょう。
時には、あれもこれも「してもらう」という依存傾向が見受けられたので、自立をうながすことが先決でした。提供するサービスを少しずつ減らしながら、「あなたが地域に貢献できることは何ですか?」と問いかけていくようにしたところ、「運送の仕事をしていたから、移動や送迎を手伝える」「ものづくりが好きだから、みんなで使えるアトリエがあれば、だれかを元気にできるかもしれない」という風に、個人の得意とすることがポジティブな地域貢献活動へと変化していったんですよね。それから、皆さんの能力を引き出すための支援活動をはじめることにしました。

中村さんたちは、資材や活動の場、人材の提供や資金調達など、コミュニティづくりを総合的にサポート。地道な活動を続けていくうち、メディアにとりあげられはじめると、ますます相談が増えていったそうです。そこで「家族がばらばらになってしまった人をひきとりたい」「園芸が好きだから、お花を植えてまちを明るくしたい」など共通の想いを持っている人たちを集めてつなぎ、それぞれのグループの活動方針を立てるお手伝いをした結果、多くの団体が育っていきました。

スキャン 22000年、当時あった甲南市場内に開設した女性のための拠点「甲南NPOセンター」内ものづくりグループ


縁のある人とのつながりが、命を救う

震災後の日常がめまぐるしく変化する中で、中村さんはサービスを提供するだけの活動に限界を感じはじめます。
今度は、震災の記憶から立ち直りはじめた人や前向きになってきた人たちへの働きかけが必要になってきました。そこで、ひとりよがりの自立ではなく、お互いの弱点を補い、助け合いながら生きていく取り組みをはじめたのです。それが「CS神戸」を生むきっかけとなりました。

震災発生後、大半の方がまずおこなったのは家族の安否確認でした。次に隣近所を訪ねたり、お互いに声をかけ合ったんですよね。この一連の行動を、「第1次確認→家族」「第2次確認→近隣」「第3次確認→縁のある人」と整理しました。

「第3次確認」の「縁のある人」は、仕事や趣味などを通じてつながった仲間のこと。実際に、がれきの下で数日間生き埋めになっていた独身女性が、昔の趣味仲間に助け出された例もあったのだそうです。
この「第3次確認」が、人の命を救うことにつながる。こういうご縁、つながりを生み出す仕組みをつくって、日常的に広めていくことが人の命を救うんだ!安心・安全につながる道筋なのだと確信したんです。

062阪神・淡路大震災の教訓から得た、被災直後の行動分析


ボランティア教育も、重要な仕事のひとつ

阪神・淡路大震災が発生した1995年は、「ボランティア元年」「NPO元年」と言われています。震災をきっかけに集まった復興支援ボランティアに注目が集まり、ボランティア活動が一般的に認知されるようになったのです。
130~150万人のボランティアが、被災地や被災者の手助けをしてくれました。それまで、日本では災害の復旧活動を担うのは主に警察、消防、自衛隊だけ。阪神・淡路大震災後は、若い学生たちが泥まみれになりながら救援活動に励み、大規模な助け合いが自然におこなわれるようになりました。

一方で、ボランティアの学生たちとは衝突することもあった、と語る中村さん。
一般的なマナー教育から、ボランティアとは一体何なのか…など何度もミーティングを重ねて、お互いの理解を深める努力をしました。けれど、私の方も手いっぱいの状況で。ボランティアの皆さんとのミーティングや、ニーズと人材を適切にマッチングする時間の確保がむずかしい状況もありました。

支える基盤が確立していないなら、自ら生み出していくのが中村さん。さまざまな企業の管理職の方に来てもらい、現場のマネジメントを依頼したそうです。
「人を助けたい」という気持ちはとても大切ですが、やはり守るべきルールがあります。当時は、そういう意識が全体的に未熟でした。その頃の経験がいきて、今では「ボランティアコーディネーター」という役割が学問のひとつになっています。そして、ボランティア活動に来てくれていた学生が福祉の道に進むと聞いた時は、非常にうれしかったですね。

CIMG0010中村さんが培ってきたノウハウを学びあう場づくり


役割をみつければ、人は輝く

阪神・淡路大震災では、社会との関わりの薄い人たちが命を落とした側面があることも否めません。「自治会や婦人会などを含めた、地域と縁の深いあらゆる組織や団体、専門的な強みをもつNPO団体が縦横につながり、さらには個人の興味や関心のネットワークを軸にして人と人とを無数につないでいくことが私の使命」と語る中村さん。社会との接点を持つ人がもっと増えれば、防災や減災、地域の防犯にもつながるのではないか、とさらに言葉を続けます。
私たちの仕事は、市民の方がやりたいことをただ支援するのではなく、社会のニーズとマッチングしていくこと。仮設住宅で暮らしている、震災前までコーヒー屋さんを営んでおられた方が「ボランティアの人に、ありがとうと言い続けなければならないのがつらい」と言うので、「だったらあなたが、ありがとうと言ってもらえる立場になったらどうですか」とアドバイスしました。すると、仮設住宅内でコーヒーサロンを開店、見るからにいきいきとしはじめたんです。人は、役割があると輝きますよね。

地域の団体は、日常の細やかなことにまで目が行き届いています。だから、防犯や防災にまつわる活動ができる。専門性や技術などが必要な時はその分野に強いNPOが動くなど、地域の中で役割分担ができるといいですよね。私たちのような中間支援組織同士がもっと手を結んで、共通のテーマとして取り組んでいきたいなぁと思っています。

085共に歩み続ける「CS神戸」のスタッフと


まいてきた種を、みんなで育てていきたい

あふれんばかりの行動力で事業を開拓、人材を育て、世の中に無数の種をまいてきた中村さん。これからはその種を、みんなで育てていきたいと語ります。
阪神・淡路大震災が起こった時には、多くの人が情報を交換し、自然に声をかけ合っていました。今ではすっかりそういう雰囲気が薄れてしまい、社会との接点を見つけられない人たちが多いように思います。彼らのプラスの面を発見し、社会とつなげていくことを続けていきたい。関係性を育むことで、お互いを気づかい、外国のようにフレンドリーに声をかけあえる地域を増やしていきたいと願っています。


(写真/森本奈津美 取材・文/二階堂薫、山森彩)

中村順子

NPO手法による事業を行う団体を支援する中間支援組織「コミュニティ・サポートセンター神戸(以下、CS神戸)」の理事長。ボランティア活動がまだ認知されていなかった時代から有償ボランティア団体に所属し、阪神・淡路大震災をきっかけにCS神戸の母体となる「東灘地域助け合いネットワーク」を設立。30年以上にわたり、その世界の先頭を走り続けている。

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