「ハゲタカ」など経済小説で著名な小説家、真山仁さん。2013年3月に今までの作品とは異なる東日本大震災をテーマにした小説『そして、星の輝く夜がくる』を刊行しました。この小説の背景には、20年前の神戸で被災した忘れられない経験がありました。そんな真山氏の小説家人生と震災経験、神戸への思いを聞きました。
第Ⅰ部 小説家への歩み
―真山さんがそもそも小説家になりたいと思われたきっかけは何でしょう?
小学校のときからあまのじゃくな子で、周りが気が付かないことや気にしないことに気付く、皆とは別の方向を見ている子どもだったんですね。分かりやすい例だと、みんなサッカーをやるとボールに集まりますよね。自分はボールのところには行かず、誰もいないところでボールが転がって来るのを待っていて、そのボールをもらってゴールまで持っていくタイプでした。それから小学校の学級会って、大抵、先生が決めた流れで進行していくじゃないですか。ある議題に対して、一人が提案したことが何も議論されないまま、そのまま決定になることがおかしいと思っていた。いろんな選択肢がある中で選ぶべきだと。「おかしい」と思ったことは言葉にしないと気が済まないので、学級会ではよく手を挙げて反論していました。でも徐々に、私が手を挙げると周りが「ほら始まった」という空気になるわけです。高学年になると、このままだと後の人生が生きにくいだろうな、と思うようになりました。でも、自分の“ものの見方”は何かに役に立つことがあるかもしれない。どうやって活(い)かせばいいんだろうと考えていました。そんなときに小説を読んで、すごいな、と思ったんです。自分が作り上げた物語や、伝えたいことを、一人の著者の力で多くの読者に訴える。小説家になったら自分の“ものの見方”を活(い)かせるかもしれない、と小学生のときにぼんやり思いました。
小学校の高学年からミステリーを読むのが好きで、中学のときにはすっかりはまって、海外のミステリーを中心に読みあさっていました。高校生になって、改めて将来のことを考えたときに、自分の性格と成績、好きなものと嫌いなもの、置かれている状況を考えてみた。ものの見方は小学生からさらに尖ってきていました。考えた末、最終的に残ったのがやっぱり小説家だった。
―どのような小説家になりたいと思っていましたか?
ミステリーの中でも、特に社会派のものや陰謀小説が好きでした。高校のころ、「こんな小説家になりたい」と憧れたのが、日本だと山崎豊子さん、外国だとフレデリック・フォーサイスです。山崎さんはミステリー作家ではありませんが、社会派の小説家です。小学生のときに医者になりたいと思ったことがあったのですが、しかし中学、高校で明らかに「理系が嫌い」、「苦手」と判明し、医学部という選択はなくなりました。そのときに山崎豊子さんの『白い巨塔』を読んだんですよ。医学に関して、多くの人に関心を持ってもらうことが小説でもできると分かったのが大きな発見でした。
好きな小説家を何人か分析したら、新聞や通信社の元記者が多かった。なぜ彼らの小説が自分に響くのかと考えたときに、彼らが書くものは社会の問題点をきちんと取材し、追求するスタイルだった。だから、小説家になるためのステップとして記者になろうと思いました。そこで取材力と分かりやすい文章を書く技術を身につけ、人脈を作ろうと。山崎豊子さんの小説の素晴らしさは、難しい言葉で飾らず、わかりやすい言葉で社会の問題や登場人物の魅力を伝えているところにあります。お会いしたことがないので推測ですけど、彼女が大事にしていたのは「小説で思いを伝える」ということだと思います。そうすると文章を飾らなくなるんですよね。そういうスタイルの方が、自分に合っているだろうな、と思いました。
―大学を卒業して新聞記者になられましたが、ジャーナリストの世界で生きていこうとは思わなかったんですか?
新聞がいくら社会問題をえぐり出す努力をしても、読者に強い関心を持ってもらうのは至難の業だと痛感しました。例えば、小学校、中学校、高校のときに、私は友達と政治の話をしようとした。子どもなりに現政権の話とか。でも誰も興味を持ちません。子どもの世界の話だけで彼らはいいんです。そのとき、思ったのは、興味がない人にいかに興味を持たせるか。問題意識の高い人にはジャーナリズムでいい。そうではない、世の中のことには無関心な多くの人々に関心を持ってもらうには「娯楽」が一番効果的です。記事で読むよりも小説で読んだ方が分かりやすいし、さらにその小説が映像化されたら、もっと多くの人が見ることができます。どうやって伝えたいことの輪を広げていくかという方法論としては、エンターテイメントには勝てないと、記者をやっていて分かりましたね。新聞で特ダネを書いても関心を持つのは関係者、同業者だけです。ですから、小説家になるという気持ちがブレたことはありませんでした。記者時代は、どんな陰鬱(いんうつ)な事件の現場に行っても、ミステリー小説の取材だと思えば頑張れた。何でも小説の肥やしだと思っていました。新聞社を退社して、フリーライターになったときも、知らない分野を取材するのは楽しかった。小説家になるためには、できる限り社会を知るべきだと思っていましたから。
第Ⅱ部 阪神・淡路大震災を体験して、決意したこと
―阪神・淡路大震災のときにはどちらにいらっしゃいましたか?
神戸の自宅にいました。ミステリーの新人賞に小説を投稿しながら、フリーライターとしてようやく生計が立つようになった頃で、震災が起こる30分前まで原稿を書いていました。会社案内の原稿だったんですが、パンフレット丸ごと1冊を一人で受けて、これで生活が少し楽になるな、と思ったのを覚えています。マンションの1階でベッドに横になってすぐ、大きな揺れがきたとき、最初は隕石が落ちてきたのか、トラックがマンションに突っ込んできたのかと思ったんですけど、下から突き上げてきているので、地震だと分かりました。びっくりして、まず、震源地は自分のマンションの下だと思った。その次に「死ぬな」と思いました。「何で、1階になんて住んだんだろう」って。天井が落ちてきて押しつぶされるに違いないと思っていました。「ああ、こんな死に方をするのか、まだ小説家の入り口にも立ててないのに」って意外と冷静に考えていました。揺れていたのは40秒ほどといわれていますが、もっと長く続いた感じだった。天井をずっと見ながら、揺れが止まったときに「うそだろう?なぜ無事だったんだろう?」って思って、次に湧いてきたのが「助かった」という感情でした。
―家の周辺はどのような状態でしたか?
それが、恐る恐る外に出たら普段とほとんど変わらない風景だったんですよ。地面にヒビがいっているとか、ガス臭いとかはあるんですが、人もたくさん外に出てきていて、見渡した限りだと家も何も壊れていない。あれだけ揺れたのに、こんなもんかと思いました。でも駅の方に行ったら、電車のレールがぐにゃりとあめ細工のように曲がっていて。家に帰ってから電気が復旧し、テレビに三宮が燃えている映像が映し出された。「うわぁ、大変だ」と思った瞬間、初めて自分がどれほどラッキーだったのかが分かった。震源地の淡路島は家から10kmも離れていない。うちよりはるかに震源地から遠い人たちがマンションの1階で押しつぶされて死んでいて、ビルが丸ごと倒れたところもあれば、家が地滑りでダメになったところもあるわけです。なぜ震源地から近い自分は生き残っていて、遠い人が亡くなっているのか。そこには多分、何の必然性もない。なぜ自分は助かったんだろうという後ろめたさが生まれ、つらかったですね。
―このときの経験から、いつか震災についての小説を書こうと思われたと聞きました。
私は神とか運命とか信じないんですけど、震災で助かったことを、小説を書くために生きてていい、って言われたんだろうな、って思うようになりました。そう思わないと、ずっともやもやしていたんで、割り切らなくてはと。余生でも何でも、拾った命でも何でもいい。小説家になるしかないと、それまで以上に強く思うようになりました。そして、小説家になったら、必ずいつか、震災を書こうと心に決めていました。
―仕事にはどのような影響がありましたか?
芸能関係のプロモーションの仕事が多かったんですが、1年間ぐらいコンサートやミュージカルなど自粛するムードだったんですね。それでガクッと収入が減りました。これじゃまずいっていうので、東京の知り合いのつてを頼り、ビジネス書のゴーストライターの仕事を始めたんです。他人の本ですけど、単行本を一冊書くわけじゃないですか。小説を書く上での基礎体力はつきました。被災して2年目にはまた、文学賞に投稿をしていました。夜中の1時まではライターの仕事をして、1時半から3時半までは小説を書いて、8時に起きて取材に行っていました。平日2〜3時間睡眠はよくありましたね。
上:震災後の近未来の日本を描く、異色の政治ドラマ『コラプティオ』(現在は文春文庫から発売) 手前:投資ファンドをテーマにした経済小説。NHKの連続ドラマにもなり、大反響を呼んだ。『ハゲタカ』(上下)(現在は講談社文庫から発売)
―『ハゲタカ』でデビューされたのが2004年でした。
その前に生命保険会社の破綻危機を描いた小説を、違うペンネームを使って共著で出版しています。それが結果を出したら単独でデビューさせてほしいという願いが叶い、『ハゲタカ』を書くことになったんです。
東日本大震災をテーマにした小説『そして、星の輝く夜がくる』
―『そして、星の輝く夜がくる』は真山さんの今までの作品とは一線を画します。神戸から被災地にある遠間第一小学校に赴任した、小野寺先生と子どもたちとの交流から、被災地が抱える問題がいろいろと浮かびあがってくる。
今まで私の小説を読んできた人の印象からすると、被災地が舞台っていわれたら、復興担当大臣と知事の戦いを描いた作品を想像されるかもしれません。しかし、この本で一番偉いのは小学校の校長先生で、子どもたちが中心人物です。大臣や知事のような権力のある人ではなく、普通の人たちに何ができるか、ということこそが、被災地を考えるのに重要な要素だった。
実はデビュー以来ずっと震災をテーマにした小説が書きたかったのに、何を書くか決めきれていなかった。そして2011年の3月に東日本大震災が起きてしまった。数カ月後に出版社から連絡があり、被災地を応援する短編を集めた雑誌への執筆依頼をいただき、何編か続けて書かせてもらう条件で引き受けました。仙台から大船渡まで3日間かけて回ったり、被災地には何度か取材に行ったりしましたが、直後は人に取材をしていません。メディアから情報を得る中で気になったのは子どもたちでした。3.11からずっとテレビは子どもたちを撮り続けていたんですよ。大人たちが打ちのめされているときに、避難所で一番頑張っていたのは中高生なんです。弁当を配ったり、高齢者や小さい子を介護したり。さらに小学生たちが明るく飛び回りながら何かやっている。論調は「子どもはすごいですね」「被災地でもこうやって明るさを振りまいて子どもは偉大です」ってやり始めた。
いや、そうじゃないんだって。子どもは大人がダメになると、動物的本能でああいう行動をとるんです。神戸でも子どもたちは我慢して、翌年、PTSD(心的外傷後ストレス障害)がバンバン出て、ものすごく大変なことになった。同じことをまたやっている、これを続けると大変なことになる、と思った。それで、小説の中で子どもに大人を叱らせようと考えました。
―登場する小野寺先生は阪神・淡路大震災の被災者ですね?
阪神・淡路大震災で大変な経験をした人物を東北に派遣したかった。小野寺は東北では部外者ですが、被災経験者だから言えることがあるからです。そうすればマスメディアが踏み込まない話もできる、と思ったんですね。そして、小説では子どもは東北弁を話していない。理由の1つは地域を特定するのではなく、東北のどこかという設定にしたかったから。また、方言をやめると子どもが理性的になる。関西弁の、感情的な先生と理性的な子どもという設定にして、子どもが大人を叱っているように構成しました。
―原発で働く父親がいる生徒へのいじめや、ボランティア団体と被災者とのトラブルなど、一つ一つのエピソードにリアリティがありました。
被災者に「頑張るな」と言うことや、ボランティアの問題や震災遺構(※1)など、各話一つのテーマを設定し、私が伝えたいことを小説にしました。簡単に答えを出せない問題ばかりですが、読者が考えるきっかけになってくれればと思います。
―東北の人たちにも読んでほしいと書かれたんですね?
最大のポイントは東北の人を叱ろうと思っていました。悪い意味ではなくて、最後は彼らが頑張らないと復興どころか復旧だってできないし、そもそも、本当に元に戻してほしいのだろうかということなんです。元あった、若い人が働くところのない、過疎のまちに戻すのではなく、新しいまちをつくっていくことが大事なのではないかと伝えたかった。
―本作の続編を予定されているそうですね?
読んでくださった多くの方から、2年目の遠間第一小学校はどうなったのか?という質問がたくさんあったんですね。それで、続編を書くことにしました。年内に連載を開始する予定です。
―20年前に阪神・淡路大震災を経験して、神戸として伝えていかねばならないこととは?
もし、阪神・淡路大震災のことを20年という節目の後に、伝えていこうとするならば、私たちは「何を伝えるか」を考えるべきです。震災が起きたときにとるべき行動なのか、何かを失ったときの乗り越え方なのか、人によって違ってくる。さらに、自分の話を一方的に語るのではなく、そこに人を巻き込む語りや行動である必要があると思います。話を聞いてくれている人自身の物語になるかもしれない、普遍的なこととして伝えていくことが大切ですね。
※1 震災遺構・・・震災が原因で倒壊した建物などで、次世代に向けて震災が起きたという記憶や教訓のために取り壊さないで保存しておくというもの

『そして、星の輝く夜がくる』講談社 真山 仁著
東日本大震災の直後、被災地にある遠間第一小学校に、応援教師として神戸から赴任してきた小野寺徹平。小野寺自身も阪神・淡路大震災の被災者だった。彼は児童たちとの交流を通して、被災地が抱える問題と向き合っていく。生者と死者、原発事故、ボランティア、震災遺構、記憶と忘却をテーマに描いた、6つの連作短編集
(取材・文/高山裕美子)