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Q. 避難生活で困ったことは何でしょうか?

避難所経験者70人に聞いた、避難生活で困ったこと TOP5

風呂の水は抜かないでおいておく。(トイレに流すのにとても助かりました)

西区
主婦 女性 69歳

トイレが土を掘った外にあったので、トイレに行くのが怖かったのとウンチをするのが恥ずかしかった。

東灘区
主婦 女性 30歳

トイレの水が無く、避難場所(中学校)のプールの水を毎日バケツで運んでへとへとになった。

兵庫区
専業主婦 女性 72歳

トイレが詰まったと何人かの話を聞き、見に行った。便器には紙とウンチが交互に積み重なり、みんながそれを押し込もうとしていた。そんな事をしても解決はしないと云うと、白い目で見られたが、ゴみ袋に入れましょうと云うと更に、誰がするの?と白い目が、更に白く。

でも数人で、全ての便器の紙をごみ袋に入れて、トイレを使用する前に、バケツに1杯の水をプールから汲んでくる事を義務付けた。小便には使用しないけど汲んできておいておく、子供と高齢者は不要とルールを作った。その後、トラブル無し。震災後、学校が建て変わったが、プールの回りは簡易トイレが設置できる設計になっている。

中央区
自営業 男性 70歳

一番困ったのはトイレです。一度ずつ流すことができないので、当然汚い状態です。痔の人もいるのか血もたくさん混じっており、5年かかってやっと息子のオムツが外れたところだったのですが、トイレに入るのを嫌がるため、しかたなくオムツに戻しました。

長年の苦労が水の泡になるような虚しさを覚えました。

長田区
無職 女性 58歳

家の前の公園でブルーシートを張って1週間位いましたので、トイレは公園のトイレで、もう満杯の糞尿でおかしくなりました。

神奈川県川崎市
コープこうべ職員 女性 26歳

特に困ったことはトイレ。大便のほうです。水は出ない、流れない、前に使った人の便の山を崩して低くしておいてから、行う。低くするための棒が必要。

ご飯が食べたいのに、パンしかなかった。しかもあんぱん。あんぱんが苦手だったので悲しかった。

灘区
主婦 女性 30歳

食事。食べるものがなくおなかが空いたな…と常に思っていました。

東灘区
女性 34歳

食べ物が最初は早い者勝ちで、下手したらないときもあった。

千葉県
主婦 女性 31歳

贅沢なこととは思いますが救援物資が最初おにぎりでしたが、テレビでお弁当がいいと流れるとそのあとお弁当ばかりくるようになり、パンがいいと流れるとパンばかり来ました。ありがたく感謝していますが贅沢ですみません。

一言、テレビでこれがいいとながれると0か100か極端に変わってしまい、しかも続くのが驚きました。一応アレルギーのひともいますので考慮した食べ物が最高にうれしいです。

東灘区
自営業 男性 42歳

区役所前で寒空に2時間ほど延々と長蛇の列を並んでやっと、ひとりリンゴ1個をもらった。家族の人数分を言っても数は増えなかった。

毛布も同じように、さらに2時間並んで1枚もらった。並んでいるときも足踏みしながら手をこすり自分で暖かくするより方法がなかった。

避難場所で当日の夕方お弁当の配給があったが、私の前でなくなり1日の食事がおにぎり半分だった。翌日、パンの支給があったが食べるものは本当に困った。

東灘区
事務職 女性 55歳

被害の大きいところにはマスコミが報道するので、物資も早く届いたが、死者も無く、家も半壊が殆どだった私の地域は水や食料がなかなか届かず、高齢者や子どもたちは大変だった。

兵庫区
専業主婦 女性 72歳

毛布が1枚。冷たい床の上で寝ていたので寒さのあまり、高熱を出した。

灘区
主婦 女性 30歳

冬場だった為、学校に寝具が無かったので不便だった…当時は学校に一週間ほど避難をして教室の床で寝ていました。寒いので、講堂のカーテンを取りくるまって寝ていました。

須磨区
神戸市職員 男性 49

母(80歳)が一緒で、寒くてだんだん弱ってきて、どうなるか心配だった。

千葉県
主婦 女性 41歳

小学校の体育館に避難しましたが、校舎が倒壊しそうで危険なことと、ご遺体の安置がなされているということで入れず、校庭で一夜を過ごしました。

冬だったのでとても寒く、暖をとるため図書室の本を燃やしている方がおられました。仕方ないこととは言えとてもやりきれない思いがしました。

兵庫県姫路市
病院職員 女性 51歳

小学校で避難所のお世話をしていました。とにかく最初寒かった。校庭で、ドラム缶で火を焚き、暖をとりました。

2000人を超える避難者に当初は何をどうしていいやらわからなかった。職員室にはどんどん「○○さんという人はそちらに避難していますか?」という問い合わせが殺到するが、ちゃんとした名簿もなく、混乱していた。

兵庫県明石市
小学校教諭 女性 45歳

冬といえども風呂に入らなかったから体は臭いし、髪の毛は脂でギトギト、全身しもやけでかいかった。

でも、一突で自衛隊がタダで銭湯を開いてくれて助かった。ありがたかった。

中央区
会社員 男性 42歳

電気、水道は早く普及したが、ガスが遅れて風呂に入れない事。タオルに水を含まして電子レンジでおしぼりを作って体をふいたが、頭がかゆいのには困って、結局冷たい水で洗った。

灘区
無職 男性 67歳

お風呂。冬場だから数日は耐えられたが夏場だと考えるとぞっとする。

東灘区
女性 32歳

電気は直ぐにきたけどガスはなかなか来なかったのでお風呂に入れなかったので、西区の知り合いのお家でお風呂に入らせていただきました。そのお風呂がとても気持ちよかったのを覚えています。

垂水区
フリーター 女性 27歳

体育館に避難できただけでも良いほうだが、最初の何日かは仕切りがなく、気を使いながら生活をしていた。

東灘区
主婦 女性 31歳

避難生活が長期化するにつれ、適度なプライバシーが保てる空間、あるいは時間帯がなかったことが、ストレスになっていたように思います。その意味では早期に仮設住宅などを確保することが重要だと思いました。

中央区
地方公務員 男性 46歳

私は生後5ヶ月の子供を抱えていたので、授乳する時が1番困りました。自分の空間がないので、周りを気にしながら授乳したのを覚えています。あとは、トイレとお風呂ですね。

長期にわたる避難生活でしたので、いつも誰かに見られている感覚があったので、精神的に参ってました。

兵庫区
無職 女性 47歳

当時、息子は5歳と3歳でした。5歳の息子は最重度の知的障害があり自閉症です。普段と違う異常な状態に息子はパニックを起こし、走り回り、片時も目を離すことができず、とてもそこにはおれませんでした。

どうしようかと思っていたところ、社宅のすぐそばにあった会社の研修館に入れてもらえることになりました。また、息子の障害のことを話すと、小さな会議室を友人宅と2軒で使わせてもらうことができました。大勢の中では、寝ている老人の布団の上に飛び乗ったり迷惑をかけるので、配慮していただけなかったら、危なくても社宅に戻っていたと思います。

長田区
無職 女性 58歳

その他のコメント

余震は30分〜15分おきぐらいに震度4〜3が常に来て、避難していた小学校の体育館はミシミシと音を立て、いつ全壊してもおかしくない状態で、恐怖に震え声を出すことも出来なかった。

そのうち取り仕切っている方から、この体育館は全壊しますから立ち退いてくださいの言葉。あわてて、別の教室に行ったが、すでに人々で満員だった。家族4人でも、まるで夏山登山の山小屋のようで、お互いの足と顔が重なるほどだった。その状態でも次々と新しく避難して来た人で過密状態も深刻だった。後に来る人ほど重傷者で、このままではいけないと思った。私たち家族はけがもなく避難できていたので、別の場所に移動することを考えていた。

電灯、TV、ラジオなど状況を知らせる物は何もなかった。夜中じゅう、避難されてる人たちに「〇△町3丁目の何々さん居られますか?」という声が延々と続き、寝るどころの話ではなく不安な夜を過ごした。もう地球が割れたのではないかというほどに心は落ち込み真っ暗でした。

灘区
無職 男性 67歳

自宅から徒歩5分のところにある(当時通っていた)小学校に、母と姉と避難。体育館が解放されていたので、そこで震災当日は過ごしました。毛布を数枚、ストックの水6本、自宅から持って来た食糧とお菓子を自分たちのスペースに置いておきました。

43号線の南側でガス爆発があり有毒ガスが発生しているため2号線より北へ逃げろとの嘘の情報で、身ひとつで一旦体育館から出され、みんなで話し合った結果、よその避難所へ行くことへ決まったので30分ほどで荷物を取りに戻ったところ、何ひとつ残っていませんでした。

まるで映画のような街が崩れている風景、父がいない不安、食糧がなくなった恐怖、気候も寒く、あの絶望感が忘れられません。

中央区
事務職 女性 29歳

災害弱者のうち、慢性疾患の被災者への医療支援が遅れていました。

西区
臨床検査技師 男性 69歳

正直、困ったことがありすぎて思い出せない。中犬と小型犬を飼っており、避難所に連れていけないのでどうしたらいいか困った。

当時、地震発生の三ヶ月前に引っ越してきたので知り合いがおらず、まわりに話しかけづらかったのもひとつ。

東灘区
自営業 男性 36歳

情報も食料も何もなく、自衛隊の援助も避難当初はありませんでした。また遺体を安置する場所もなく、生存者が外で寝泊まりする中、教室が安置所に使われる状態。なんとも言えない状況でした。

東灘区
システムエンジニア 男性 30歳

避難所の格差、テレビ、自衛隊が入ってる避難所は、物資が豊富で、私達は永らくパンだけでした。市議会議員の方の連絡で物資が入ってくるようになりました。マニュアルと連絡網が大事だと思います。

中央区
会社員 男性 54歳

冬といえども風呂に入らなかったから体は臭いし、髪の毛は脂でギトギト、全身しもやけでかゆかった。

でも、ひと月で自衛隊がタダで銭湯を開いてくれて助かった。ありがたかった。

中央区
公務員 男性 42歳

リアルタイムの状況や余震のリズムが分からない為、想像での恐怖と戦っていました。過去の大地震を経験したお年寄りの方が、余震が来た時の時間をメモし、次に来る時間を予想してくれていたので、その時間が近づくと身の安全を確保していました。

東灘区
主婦 女性 39歳

寒さと、自分のいびきです…寝ている間はコントロール出来ないので。余震といびきで他の避難者さん達に多大なる御迷惑をお掛けしたと思います。この場をお借りして、ごめんなさい。いびき対策で避難所の中にマイカーのワンボックス車を駐めさせて頂き、御世話になりました。

東灘区
自営業 男性 54歳

一部の人が自分の思いで行動を取っていた。

例えば、学校の教室など部屋の中で、コンクリートの地面に模造紙を引いて、その上に毛布を敷き、「寒い寒い」と云う人が多くいた。それにも関わらず、学校の校庭では荷物が入っていたと云う段ボールを燃やしている。「燃やさずに床に敷きましょう」と云っても、寒いから燃やすのだと主張。

強く言えばトラブルの元にもなる。何かマニュアルがあればと思った。

中央区
自営業 男性 70歳

避難所での役割分担を決めたが、男性は仕事があるからと外してもらえたが、仕事を持つ女性には配慮なし。子供が泣くのをうるさい、と怒鳴る人もいた。お酒を飲んで暴れる人もいて怖かった。

教室に移っても4分割にされ、入口側で低い衝立だったので、結局出入りする別家族から丸見えで、着替えにも不自由したし、奥の家族はコンセントを占有してトースターや冷蔵庫まで使っていた。

東灘区
会社員 女性 56歳

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