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震災を経験していない方に聞きました
Q.阪神・淡路大震災について、知っていること・感じたことを教えてください。

被災地から離れた場所にいた方

読み物も読みました。神戸市の復興政策も読みました。人と防災未来センターも何度か訪ねました。
ですが、どれほどの現実だったか、自分は知らない、ということを知っています。

当時:神奈川県平塚市
現在:灘区
男性 41歳 会社員

長田に住む友人の家は倒壊を免れ残っていた。しかし数百メートル離れた場所の火事が、消火されることなく火の手が迫ってくることに驚き、家の中のものを持って出たが混乱し何をどうしていいのかわからなかったと言っていた。

当時:愛媛県今治市
現在:兵庫区
女性 51歳 介護支援専門員

当時は大学2年生でした。後期試験を前に、試験勉強に追われておりました。朝8時過ぎ、起床。母から「大阪が大変なことになっている」と聞き、そのままTVを観ておりました。
その内「いや、神戸だ」となり、長田区の火災の中継。とんでもない火災に驚き、その日は勉強もストップ。友人たちと電話しつつ、流れるNHK教育の安否情報を徹夜で見ておりました。徐々に高速道路、異人館の被害。三宮周辺でのビル倒壊。惨劇に驚き、大学内でもその話題で持ちきりでした。
後期試験が始まりましたが、神戸他、兵庫県内に実家のある同級生達が戻ってこない。そのまま、試験期間は終了。2月の初めか中旬頃に、ようやく同級生達が戻ってきました。本当に無事でよかった。試験に関しては追試の形で被災した同級生達は試験を受けました。

当時:千葉県船橋市
現在:兵庫県尼崎市
女性 39歳 主婦

修学旅行先のテレビで燃える神戸の街を見ました。はじめは映画の宣伝だと思っていましたが、2台しかない公衆電話に長い列ができ、繋がらない電話を何度もかける静けさを覚えています。翌朝から、家族に不幸があった人から順に帰路が確保され次第帰りました。食事で広間に集まる度、帰り支度をするようにと呼び出されないか不安になっていました。

当時:中央区
現在:中央区
女性 36歳 自営業

阪神淡路大震災当時、私は神奈川県在住の大学生だった。テレビで現地の様子を見るにつけ、何とか現地に行きたかったが、当時は携帯電話もパソコンも普及しておらず、アルバイト代から出した「義援金」を新聞社に送ることしかできなかった。

当時:神奈川県大和市
現在:西区
男性 41歳 会社員

椅子の上にあぐらをかいて勉強していた私は、自分の身体がかすかに揺れているのを感じました。「あー、徹夜でフラフラするのかな〜」と振り返って天井を見上げると、蛍光灯の傘がゆっくり左右に動いていました。「どこか遠くで地震が起きたなあ」。そのまま誰とも話をせず大学に行き、学生食堂のテレビを見て初めて神戸の報道を目にしました。驚きました。最初は、映画のようだと思いました。
それからなんとなく、モヤモヤした感情が胸の中にありながらも数日を過ごし、ある時新聞で「神戸にボランティア入り」という見出しを見て「ああ、自分がやりたかったことはこれだ!!」と思い、3月に神戸へ入りました。
長田区と兵庫区でボランティア活動をし、湊川公園にあった「兵庫区ボランティア対策本部」副代表を務めました。当時神戸市で初めての公的ボランティアセンターの設置運営に、行政や各団体代表者らと汗をかきました。その後は仕事をしながら、余暇時間を災害支援事業に充てるようになり、20年間定期的に神戸をずっと訪れ続けています。

当時:東京都台東区
現在:千葉県千葉市
男性 47歳 歯科医師

実家が明石で半壊しました。私は当時大学生で、京都で一人暮らしをしていたため、実家に電話をしましたが2時間以上つながりませんでした。テレビから流れてくる情報は、震源地は淡路で、長田区のいたるところで火事が起きている映像でした。震源地から最も近い明石の情報が全く入ってこなかったので、とても不安に思ったことを覚えています。
後から聞いた話では、寝ている父親のお腹の上に洋服ダンスが倒れ、テレビが母の頭のすぐ上に落ちてきたそうです。台所は食器棚が倒れて食器が割れて歩ける状態にはなく、飼い犬の柴犬は外で震えていたそうです。
父の弟が大工をしていたので当日すぐに駆けつけてくれて、屋根の上にブルーシートをかけるなど対応してくれたそうです。その時に、食料やすぐ使えるホットプレートなどの調理器具を持ってきてくれて、大変助かったそうです。しばらくはガスが止まっていたので、比較的早く復旧した職場の同僚の家でお風呂に入らせてもらったと聞きました。

当時:京都府京都市
現在:明石市
女性 40歳 団体職員

関西が遠く感じた。関東にいた私は、家族と深夜までテレビ中継でまちの詳細を知ることができたが、被災者は情報さえ入手することができない。必要な人に必要なものが届かないもどかしさを感じた。
経験に勝るものはなく、経験者の話をよく聞き、被害を最小限になるように市政に反映できればと思う。

当時:神奈川県横浜市
現在:西区
女性 54歳 主婦

単身赴任をしており、日本に置いてきた家族の安否を大変心配したが、大阪の会社の友人がわざわざ足を運んでくれて無事を確認してもらった。この親切は生涯忘れられない。関西人は素晴らしい。

当時:ギリシャ アテネ
現在:垂水区
男性 65歳 年金生活者

会社生活で25年間は神戸で勤務していたため、家族や会社の得意先の事が頭に浮かんだ。東京で単身赴任中の為、TVでの放映を見て大変な事が起こっていると感じた。
午後から、家族の居る神戸に向かった。午後10時過ぎに、何とか大阪に到着。ホテルで1泊し、翌日、阪神電車が甲子園まで開通していたので、取りあえず甲子園まで行き、そこからは兵庫区の自宅マンションまで徒歩で帰った。
家族の避難場所の兵庫工業高校体育館で家族と再会できた。家族は元気だったが、家内は箪笥が倒れ頭を打って怪我をし、病院で手当てを受けていた。

当時:東京
現在:東灘区
男性 51歳 電器メーカー営業

姫路でも強い揺れを感じたが、そんなに大した事はないと思っていました。テレビをつけて阪神高速が倒壊しているのを見て、大変なことがおこっていると分かりました。携帯であちこち連絡を取ろうとしましたが、不通。震災に便乗して泥棒等が多々入ってきている等の情報があり、治安の悪さも感じました。

当時:兵庫県姫路市 現在:須磨区
男性 57歳 会社員

家族の安否確認ができず、すぐに神戸へ帰ることができなかった。連絡がつくまでは、悪いことばかり考えていたように思う。家族親戚全員無事であり、家族の薦めにより仕事を全うして1月末に帰任した。
唐津よりJR須磨駅まで戻り、荷物を持って自宅まで歩いて帰る道すがら、マンションが崩壊し、1階駐車場の車が押し潰されていたり、がれきが道路に溢れていたりしたため、乗り越えながら帰った。テレビで見ていた以上に、実際はもっとひどいものだった。

当時:長田区
現在:長田区
男性 61歳 会社員

浜松に居ましたが、ドーンという音が遠くでしたような感じがしましたが、気のせいかな、と思いました。少し縦揺れのような気がしましたが、ほんの数秒でしたし、揺れもほとんど感じませんでしたので、何も気にすることなく朝食の準備を続けました。
その後、テレビで大きな地震があったことを知りました。場所が関西ということを知ってから、親戚が神戸市内、親が兵庫県内に居たので、連絡を取ろうとしましたが電話はつながらず。情報収集もほとんど出来ず、すごく時間が長く感じました。

当時:静岡県浜松市
現在:兵庫区
女性 53歳 パートタイマー

アルバイト先に行った際、同僚から話を聞いてTVの映像を見て、戦争のように感じた。すぐに神戸にいる父親に連絡を取ろうとしたが、なかなか連絡が取れず、3〜4日後にやっと連絡が取れ、1週間後に神戸に向かった。
三ノ宮から西への交通機関がなかったため、そこから自宅まで援助物資を持って歩いた。家が潰れたり、建物がなくなったりしている状況に圧倒された。パチンコ屋だけが営業していたのが、不自然に感じた。

当時:東京都
現在:灘区
男性 41歳 会社員

物心ついてから震災を知った方

長田区は火災がひどかったということ。震災後の火災では、瓦礫に埋もれたために逃げ遅れ、焼死してしまった人がいたことを小学校で学んだ。すぐ傍にいるのに、家族を置いて逃げねばならないなど、つらい出来事がたくさんあったと聞いている。
阪神高速道路が転倒したこと。倒壊した境界にいたバスが宙ぶらりんになったということも聞いたことが有る。
報道において、首都圏では半ば他人事のように扱われていたと母から聞いた。3月に地下鉄サリン事件が起こると、大阪の人でさえもそちらに関心が移ったという。
貧富の差が広がったのではないかという話も、母から聞いた。金持ちは、保険に入っていたので倒壊した家を、元より豪華に立て替えたが、長田区ではそうはいかなかったらしい。仕方のないことかもしれないが、不条理を感じた。

大阪府堺市
男性 17歳 高校生

震災当時、私はまだ2歳で、父と母、9歳の姉の四人家族でした。父は仕事場に歩いて行かなければならず、何日も家を空けるため、母は大変心細かったと聞いています。
電気供給がありましたが水道は止まっていて、私のオムツかぶれが酷かったため、水をもらいに行列に並んだりしたそうです。地方の友人が世話をしに来てくれて、本当にありがたかったと聞いています。
私は、当時のことは何も覚えていませんが、小学校などで震災について学び、傷ついた神戸の姿や、お亡くなりになられた方々を忘れてはいけないと思っています。

当時:北区
現在:北区
女性 21歳 学生

阪神・淡路大震災後に様々な地震に備えた制度ができ、その制度が東日本大震災でもとても役に立ったと聞く。

大阪府大阪市
男性 15歳 中学生

最大震度7の大きな地震が起こり、六甲ライナーや阪神高速が陥没するなど深刻な被害が生じた。火災も発生した。僕の学校(灘高校)は避難されてきた方を受け入れたり、体育館を死体安置所として開放したりと復旧支援を行ったそうだ。

東灘区
男性 16歳 高校生

普段生活しているとき、震災の爪痕はほとんど見られませんし、感じることもありません。しかし、震災を経験した人の話を聞くと、六甲山の岩が崩れたとか、この地域の家はほとんど潰れた、といった身近な場所のことで、不思議に思えてきます。阪神高速が倒れたり、長田区が大火事になっていたりする写真で見た震災とは違ったイメージだからかもしれません。

兵庫県神戸市
男性 16歳 学生

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